中国,西魏・北周・隋・唐で行われた兵制。唐代では〈軍防令〉に規定され,日本古代の軍団の制の祖型となった。中国では有力な将軍が軍府を開く制度があり,魏晋南北朝になると中央・地方に軍府が置かれ,その兵を府兵と称した。しかし狭義の府兵制は,西魏が550年(大統16)前後に編制を完了した二十四軍に始まるとされている。東魏に一敗した西魏は,関中地方の豪族に郷兵(郷民の招募による軍団)を組織させ,従来の胡族部隊とともに中央軍に編制した。柱国大将軍6人-大将軍12人-開府儀同三司24人という指揮系統を構成し,開府儀同三司が1軍を掌握した。1軍は多数の団を含み,儀同三司以下の将官がこれを率いた。各級の将官はそれぞれ軍府を開き,府兵は一般民籍を脱してこれに所属した。
隋の中国統一以後,軍籍をやめて民籍に編入し,一般農民の壮丁を簡点して府兵とした。隋以後はまた指揮系統を中央衛府と地方軍府とに分離し,府兵は自家で農業を営むかたわら,地方軍府の管轄を受けて諸任務に当たった。唐制によれば約600の折衝府を全国に布置し,1府平均1000人を収容した。中央には大将軍のひきいる左右十二衛があり,それぞれ所定の折衝府を管轄した。府兵は輪番で上京して首都の警備に当たる(衛士)ほか,都護府所管の鎮・戍(じゆ)に派遣されて辺防に当たった(防人)。在郷期間は農閑期に軍事訓練を受けた。
府兵ないし府兵制の歴史的性格については諸説があり,制度の起源について鮮卑兵制説と中国兵制説がある。府兵は本来国家の招募に応じた者で,勲功によって将官に昇る道が開かれていた。北周の武帝以来,府兵は侍官の称号を与えられ,天子を侍衛する名誉ある軍士とみなされていた。西魏以来の実力者,君主は府兵軍の総帥として政権を掌握し,中国再統一の道を進んだ。唐代になると,制度が固定化して生きた性質を失い,昇進の道が閉ざされた。帝国の拡大と辺境情勢の重大化は,その負担を過重ならしめ,これに均田体制の崩壊が加わって逃亡あいつぎ,玄宗の天宝時代(742-755)になると折衝府は実人員を有しなくなった。
執筆者:谷川 道雄
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中国の北朝、隋(ずい)、唐で行われた軍隊制度。550年ごろ西魏(せいぎ)の丞相(じょうしょう)宇文泰(うぶんたい)が地方に儀同府(ぎどうふ)という軍政機関を設け、その府兵をもって二十四軍を組織したのに始まるとされる。もともと後漢(ごかん)以来の将軍府、都督府を軍府と総称し、各軍府所属の兵を某々府兵といったが、隋・唐に至って各種軍府を整理し、軍事行政を民政系統の州、郡、県から切り離して中央直轄とした。こうして地方常設の軍府としては鷹揚(ようよう)府(隋)、折衝(せっしょう)府(唐)だけが置かれることとなり、その兵がすなわち府兵とされた。彼らは農民のなかから一定数を選抜し、農閑期に訓練を施す農民兵で、装備、食料を自弁させ、軍馬の飼養を割り当てるなどするかわり、在役期間中の徭役(ようえき)、租税を免除し、これを軍府の長官たる鷹揚郎将(隋)、折衝都尉(唐)などが率いて中央の十二衛に交替上番させ、あるいは辺境の鎮守に防人として交替で派遣した。こうして全国的共通母体から兵士を徴集し、中央、地方、辺境を一本に結び付ける制度として唐代に完成をみたが、軍府の大半が長安・洛陽(らくよう)周辺に集中して負担が偏り、また国内治安が主目的で、辺境防備や遠征軍は多量の臨時徴募兵に頼らねばならなかった。749年に至り形骸(けいがい)化したため停廃された。
[菊池英夫]
『菊池英夫著『府兵制の展開』(『岩波講座 世界歴史5』所収・1970・岩波書店)』
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西魏に始まり隋唐で整備された兵農一致の制度。もと軍府に属する兵の意味で,北魏では鮮卑(せんぴ)の兵を主力としたが,西魏の宇文泰(うぶんたい)は漢人農民を徴集して「二十四軍」を編成し,中央の十二衛に上番させた。これらは特別の兵籍にのせられていたが,隋代に兵籍,民籍の区別を廃し,徴集母体を一般民戸に及ぼし,唐はこれを受け継いだ。唐では全国に折衝府(せっしょうふ)を置き,丁男中から府兵を選んで課役を免じ,農閑期に訓練し,兵士は兵器を自弁して,1年ないし1年半に1~2回,衛士(えいし)として国都に上番し,在役年齢中に3年間,防人として辺境の守備にあたった。この制度は均田制崩壊による農民の没落,外民族の活動激化に伴う募兵制の発達により衰え,749年廃止された。府兵制は変形しながら朝鮮,日本でも行われた。
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…西魏の宇文泰(505?‐556)は,漢人徴募兵を直属させて六柱国・十二大将軍・二十四開府儀同が統率する二十四軍に編成,恒常的に儀同府に統轄し,郡県の戸籍から分離し,賦役を免除した。これらは,当番出動以外は農業に従事する民兵であって,隋・唐の衛・府兵制の起源とされる。 隋は禁衛軍として十二衛を確立,府兵の徴募母体を民戸全体に及ぼし,地方でも軍政民政を分離して軍権の中央直属を強化した。…
… 武韋時期を経過した時点で,隋以来の律令体制の破綻は,もはや誰の目にも明らかとなっていた。例えば,兵農一致の原則に立つ,西魏以来の府兵制は崩れ,傭兵による募兵制が採用され,その軍団の最高司令官として,膨大な兵力を左右できる節度使が設けられた。節度使の起源は,シルクロードの安全を確保するために涼州におかれた710年(景竜4)の河西節度使に始まり,742年(天宝1)には辺境にいわゆる十節度使が設けられるまでになった。…
※「府兵制」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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