中国,唐の太宗の年号を貞観(627-649)といい,この時代天下がよく治まったためこのようにいう。唐の第2代太宗朝には,隋末の内乱が終息して国内が安定し,対外的にも周辺民族がすべて服属して空前の平和が訪れた。律令の整備,正史の修撰,《五経正義》の編纂など輝かしい文化事業が行われたが,それらにもまして時代を特色づけるのは,君臣一致して政治の理想を追求したことである。太宗のもとには房玄齢,杜如晦らの名相,李靖,李勣(りせき)らの良将その他幾多の人材があり,太宗はこれら群臣とおりにふれて政治の得失を論じた。その基本は君臣それぞれが公人としての立場を貫いて政権の公的性格を徹底させることにあり,そのためには諫言をたてまつりまた納めることが重視された。この原則を最も強く主張したのが魏徴である。貞観時代は失政もあったが大局的には理想主義の生きた時代で,後世の模範となり,日本の清和天皇の年号(859-877)もこれにならっている。当時の君臣間の政治論は,呉兢《貞観政要》にまとめられている。
執筆者:谷川 道雄
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中国、唐第2代皇帝太宗李世民(りせいみん)の治世。貞観は年号(627~649)。隋(ずい)末以来の農民反乱の多発、群雄割拠の状態は初唐の国内を疲弊させた。太宗は即位すると、賢臣を抜擢(ばってき)して彼らの諫言(かんげん)を入れ、つとめて民力の回復を図った。その結果、唐の国礎は固まり、米価は下がり、人々は戸締まりをせず、旅行にも食料を携行しない、という平和な状態が現出した、という。また四方の異民族も帰服し、太宗に天可汗(てんかかん)の称号を奉った。以後、太宗の治世を貞観の治とよび、太平の世の模範とした。ただし、太宗に失政がないわけでもなく、また唐代の記録は太宗の事績を美化しすぎているともいわれる。
[金子修一]
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貞観は唐の太宗の時代の年号(627~649年)。太宗が名相房玄齢(ぼうげんれい),杜如晦(とじょかい),名将李靖(りせい),李勣(りせき),諫臣魏徴(ぎちょう),王珪(おうけい)らを用いて治績をあげたことは『貞観政要』によって後世に伝えられ,理想的な時代とされる。
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…唐初に秦王府参軍として太子李世民の幕下に入り,房玄齢の推挙で重用され,〈秦王十八学士〉の筆頭におかれた。李世民が即位して太宗となるや,尚書右僕射に任ぜられ,左僕射の房玄齢らと協力して〈貞観の治〉といわれる政治安定期を現出させた。房玄齢の深謀に対し,杜如晦は決断で知られ,唐の名相といえばつねに房杜と並称された。…
…隋末の混乱期に李世民の幕下に入り,杜如晦(とじよかい)ともども〈秦王十八学士〉の筆頭におかれた。李世民が即位して太宗となるや,相位にあること15年,〈貞観の治〉とよぶ黄金時代を現出させた。大敗に終わった太宗の高句麗遠征には激しく反対した。…
※「貞観の治」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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