デジタル大辞泉
「村上義光」の意味・読み・例文・類語
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
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むらかみ‐よしてる【村上義光】
- 鎌倉末期の武将。信泰の子。信濃(長野県)の人。通称彦四郎。元弘の乱に護良(もりよし)親王に従って熊野に落ちようとした際、十津川のあたりで芋瀬庄司に奪われた錦の御旗を取り返したという。翌年吉野陥落の時、親王の身代わりとなって自刃した。正慶二年(一三三三)没。
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例
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村上義光 (むらかみよしてる)
生没年:?-1333(元弘3)
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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村上義光
むらかみよしてる
(?―1333)
鎌倉末期の武士。信泰(のぶやす)の子。『太平記(たいへいき)』には義光、『尊卑分脈(そんぴぶんみゃく)』には義日(よしてる)とある。通称彦四郎。従(じゅ)五位下左馬権頭(さまごんのかみ)となる。元弘(げんこう)の変(1331)の攻防に際し、子義隆(よしたか)とともに護良(もりよし)親王に従った。笠置(かさぎ)(京都府相楽(そうらく)郡笠置町)が落ちたのち、高野山(こうやさん)に逃れる親王を助けた。1333年(元弘3・正慶2)親王のこもる吉野城(奈良県吉野郡)に幕府軍の攻撃がかけられた際、親王の身代りになって自害し、親王を落ち延びさせた。のち従三位(じゅさんみ)を贈られた。
[田辺久子]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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村上義光
むらかみよしてる
[生]?
[没]元弘3=正慶2(1333).1.18.
鎌倉時代末期の武士。信泰の子。義日,義暉とも書く。通称,彦四郎。信濃源氏。馬権頭。元弘の乱で護良親王に従った。元弘1 (1331) 年親王が笠置へ落ち延び,さらに大和十津川から高野方面へ逃れる途中,錦旗を芋瀬庄司に奪われたが,義光はこれを取返した。親王が吉野,十津川あたりの土豪を味方に同2年吉野で挙兵し,同3年足利軍が吉野に来襲すると,義光は親王の身代りとなって自害し,親王を高野へと落ち延びさせた。鎌倉宮の境内にある村上社は義光を祀ったもの。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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村上義光 むらかみ-よしてる
?-1333 鎌倉時代の武将。
信濃(しなの)源氏。元弘(げんこう)の乱のとき,子の義隆とともに護良(もりよし)親王にしたがって幕府軍とたたかう。正慶(しょうきょう)2=元弘3年閏(うるう)2月1日吉野の落城がせまると親王に脱出をすすめ,身代わりとなって自決した。通称は彦四郎。名は義日,義暉ともかく。
【格言など】只今自害するありさま見おいて,汝らが武運たちまちに尽きて,腹を切らんずる時の手本にせよ(「太平記」)
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
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村上義光
没年:正慶2/元弘3.閏2.1(1333.3.17)
生年:生年不詳
鎌倉末期の武将。信濃源氏信泰の子。元弘の乱(1331)の際,護良親王に属して鎌倉幕府軍と戦う。吉野の攻防戦で逃走して再起を図る護良親王の身代わりとなり,壮烈な最期を遂げた。
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
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世界大百科事典(旧版)内の村上義光の言及
【鎌倉宮】より
…73年官幣中社に列せられた。境内に親王の忠臣村上義光,侍女南の方をまつる村上社,南方社の両摂社がある。また史実ではないが,親王の土牢と伝えるものがある。…
【腹】より
…《義経記》でも源義経が切腹してから絶命するまでかなりの時間がある。腹膜を破って小腸を出すことにむしろ切腹の意義があり,これが誇張されれば《太平記》の村上義光(よしてる)のように,はらわたをつかみ出して投げたりする。伝承上最初に切腹したのは淡海(おうみ)の神という女性で,夫に対する恨みと怒りで腹をさき,はらわたを出したが死ねずに沼に入水したので,この腹辟(はらさき)の沼のフナなどには今も五臓がないという(《播磨国風土記》賀毛郡)。…
※「村上義光」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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