中国、晩唐の詩人。散文にも秀でた。同族の先輩詩人である杜甫(とほ)(大杜(だいと))と区別して小杜(しょうと)とよばれる。字(あざな)は牧之(ぼくし)。樊川(はんせん)と号した。長安(陝西(せんせい)省西安)の出身。828年(太和2)の進士。若いころは遊興にふけった人のようで、ときとして退廃にまで傾いた近体の艶詩(えんし)でよく知られるが、その裏面には、祖父杜佑(とゆう)が宰相となったほどの名門に生を受けながら、崩壊寸前期の唐王朝に直面し、かつ眼病に悩む弟の医療費をかせぐために低い地方官暮らしを続けざるをえなかった詩人の苦渋がある。「十年一たび覚(さ)む揚州の夢、贏(あま)し得たり青楼薄倖(はくこう)の名」など杜牧の詩が往々にしてシニカルな屈折と飛躍を示すのはそのためである。したがってその詩集には軽薄なものはごく少数しか残されておらず、「江南春」「泊秦淮(しんわい)」など清麗な絶句に特色がある。ほかに「阿房宮賦」「杜秋娘(しゅうじょう)詩」などが知られる。
文学家としての杜牧の真面目(しんめんもく)は、兵法の書『孫子(そんし)』に注釈を施したり、また、その政治論文にうかがわれる、骨格の勁(つよ)い剛直さと気概とにある。中唐に端を発した古文運動の正当な継承者といえよう。『樊川文集』20巻、『樊川詩集』7巻がある。
[野口一雄 2016年1月19日]
『市野沢寅雄著『漢詩大系14 杜牧』(1965・集英社)』
中国,晩唐の代表的文学者。京兆万年(陝西省)の人。祖父杜佑は宰相をつとめ,政治制度史《通典》の著者としても有名。太和2年(828)の進士で各州の刺史を歴任し,中書舎人に終わった。〈十年ひとたび覚む揚州の夢,贏(か)ち得たり青楼薄倖の名〉と歌う七言絶句《遣懐》によって風流才子の典型とみなされがちだが,剛直な政治姿勢を反映した,現実に対する鋭敏な認識が《阿房宮賦》など多くの作品を貫く。さらに軍事学にも興味を示し,《孫子》の注釈を残した。散文の方面では韓愈,柳宗元が復興させた古文に評価を与え,四六文が一般的だった晩唐期にあって異彩を放った。詩では杜甫を最も尊敬した。〈李杜浩浩たるに泛(うか)び,韓柳蒼蒼たるを摩す〉という賞賛は,彼の批評家としての炯眼を物語る。ことに七言絶句にすぐれ,〈江南春〉〈山行〉〈秦淮に泊す〉など人口に膾炙した作品が多い。後人は杜甫を〈老杜〉,杜牧を〈小杜〉と呼ぶ。《樊川文集》20巻が伝わる。
→唐詩
執筆者:荒井 健
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…彼は恋愛の諸相をうたった〈無題詩〉を多く作り,律詩の対句の巧みさは杜甫につぎ造語の妙も似ているが,李賀とはまた異なった新しい世界をひらくものであった。彼と並ぶ杜牧(とぼく)もまた愛情の詩人としての一面をもっていたが,その軽快な筆致は李商隠の詩の重苦しいひびきとは対照的である。この時期の詩人たちには庶民の生活,その喜びと悲しみを写すことに興味をいだく人が少なくなかった。…
…彼のグループの若き鬼才李賀は異常な感覚をもって新しい美の世界をひらいたが,その認識と鑑賞はさらに遅れ,江戸時代の末に詩集が翻刻されて初めて全貌が知られるようになる。 晩唐(836ころ‐907)の傑出した詩人は杜牧と李商隠で,杜牧は軽快な筆致の詩を作ったが,李商隠の恋愛を主題とし象徴的手法を用いた七言律詩は,李賀とも異なった美の世界を立てた。李詩の愛好者は中国では明以後に多く,近代にますます多くなるのだが,日本ではさらに遅れ,明治になって初めて研究と紹介がなされる。…
※「杜牧」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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