きねや‐かつさぶろう【杵屋勝三郎】
- 二世。幕末、明治の邦楽家。長唄三味線方。初世の子。江戸の人。住んでいた馬喰町の馬場にちなみ、馬場の勝三郎と称された。「菖蒲浴衣(あやめゆかた)」「靫猿(うつぼざる)」など名曲を多く残す。文政三~明治二九年(一八二〇‐九六)
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杵屋勝三郎
きねやかつさぶろう
長唄(ながうた)三味線方。現在、杵勝(きねかつ)派(勝五郎、勝太郎など)の家元名で、7世を数える。
[渡辺尚子]
(?―1858)杵勝派元祖の初世勝五郎門弟。
[渡辺尚子]
(1820―96)初世の実子で、前名小三郎。1840年(天保11)2世を襲名。48年(嘉永1)長唄杵勝会を結成。江戸・日本橋馬喰(ばくろう)町に住んでいたことから「馬場の鬼勝」とよばれる。長唄の芝居からの独立や、謡曲を取り入れるなどの試みを積極的に行った。『靭猿(うつぼざる)』『船弁慶(ふなべんけい)』『安達原(あだちがはら)』『連獅子(れんじし)』『都鳥』『喜三(きみ)の庭』『菖蒲浴衣(あやめゆかた)』など、数多くの名曲を作曲。明治29年2月5日没。
[渡辺尚子]
3世は2世の次男、4世は3世の妻女、5世は4世の次女、6世は5世の実姉がそれぞれ襲名した。
[渡辺尚子]
(1927― )6世の実子。本名坂口守男。4世勝太郎、5世和吉に師事。1941年(昭和16)7世を襲名。
[渡辺尚子]
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杵屋勝三郎 (きねやかつさぶろう)
長唄三味線方。現在まで7世を数えるが,2世が著名。(1)初世(?-1858(安政5)) 初世杵屋勝五郎の門弟。(2)2世(1820-96・文政3-明治29) 初世の子。前名小三郎。1840年(天保11)勝三郎を襲名する。左右両方の手がよくきいたため,その住所(日本橋馬喰町)にちなんで〈馬場の鬼勝〉といわれた。作曲家としてもすぐれ,《都鳥》《鞍馬山》《菖蒲浴衣(あやめゆかた)》《連獅子》《時雨西行(しぐれさいぎよう)》《靱猿(うつぼざる)》《船弁慶》など数多くの名曲を作曲する。(3)3世(1866-1903・慶応2-明治36) 2世の子。前名小三郎。(4)4世(1868-1929・明治1-昭和4) 3世の妻みつが襲名する。(5)5世(1891-1929・明治24-昭和4) 3世の次女で,母の没後に勝三郎を襲名したが直後に没した。(6)6世(1888-1964・明治21-昭和39) 5世の姉で,家元の名跡のみをつぐ。(7)7世(1927(昭和2)- )6世の子。本名坂口守男。1941年,勝三郎を襲名し,杵勝派の家元となる。
執筆者:植田 隆之助
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杵屋 勝三郎(7代目)
キネヤ カツサブロウ
- 職業
- 長唄三味線方
- 肩書
- 杵勝派家元(7代目),杵勝会理事長
- 本名
- 坂口 守男(サカグチ モリオ)
- 別名
- 後名=杵屋 勝作(キネヤ カツサク)(2代目)
- 生年月日
- 昭和2年 9月24日
- 出生地
- 東京都
- 学歴
- 慶応義塾大学経済学部〔昭和25年〕卒
- 経歴
- 父は歌舞伎俳優の3代目市村亀蔵。昭和8年母の6代目杵屋勝三郎に入門。10年長唄杵勝会で初舞台。15年7代目勝三郎を襲名。以来杵勝会主宰。平成21年長男に勝三郎の名と家元職を譲り、2代目杵屋勝作を名乗った。22年6月6日の京都での舞台が最後となった。
- 没年月日
- 平成22年 6月27日 (2010年)
- 家族
- 長男=杵屋 勝三郎(8代目),父=市村 亀蔵(3代目),母=杵屋 勝三郎(6代目)
杵屋 勝三郎(4代目)
キネヤ カツサブロウ
- 職業
- 長唄三味線方
- 本名
- 坂口 カメ
- 生年月日
- 慶応4年 8月28日
- 出生地
- 江戸・深川(東京都)
- 経歴
- 幼少から市川成師に舞踊を習い、21歳で2代目勝三郎に入門、のち3代目勝三郎と結婚し技を磨いた。明治37年早世した夫の後を継いで4代目を襲名。大正15年長唄協会の相談役に推され、また幹部技芸員に選ばれた。人格者であり、技にも優れ明治、大正、昭和3代にわたって活躍した。舞踊はもちろん、茶の湯もよくした。
- 没年月日
- 昭和4年 8月25日 (1929年)
- 家族
- 夫=杵屋 勝三郎(3代目),長女=杵屋 勝三郎(6代目),二女=杵屋 勝三郎(5代目)
- 親族
- 義父=杵屋 勝三郎(2代目)
杵屋 勝三郎(6代目)
キネヤ カツサブロウ
- 職業
- 長唄三味線方
- 肩書
- 杵勝派家元
- 本名
- 市村 いそ
- 生年月日
- 明治21年 9月22日
- 出生地
- 東京
- 経歴
- 3代目勝三郎の長女で、歌舞伎俳優の3代目市村亀蔵と結婚した。5代目を襲名した実妹がわずか1ヶ月で死亡したため、昭和6年6代目杵屋勝三郎を襲名、長唄三味線方の杵勝派家元として名跡を継いだ。
- 没年月日
- 昭和39年 9月22日 (1964年)
- 家族
- 父=杵屋 勝三郎(3代目),夫=市村 亀蔵(3代目)(歌舞伎俳優),妹=杵屋 勝三郎(5代目),息子=杵屋 勝三郎(7代目)
杵屋 勝三郎(5代目)
キネヤ カツサブロウ
- 職業
- 長唄三味線方
- 本名
- 坂口 照子
- 別名
- 前名=杵屋 照子
- 生年月日
- 明治24年
- 経歴
- 3代目勝三郎と4代目勝三郎の二女、6代目勝三郎の妹に当たる。幼少から父母の指導を受け、名取として母を助け、門弟を指導した。母の死後5代目を襲名したが、1ヶ月後に死去した。
- 没年月日
- 昭和4年 9月25日 (1929年)
- 家族
- 父=杵屋 勝三郎(3代目),母=杵屋 勝三郎(4代目),姉=杵屋 勝三郎(6代目),祖父=杵屋 勝三郎(2代目),曽祖父=杵屋 勝三郎(初代)
杵屋 勝三郎(3代目)
キネヤ カツサブロウ
- 職業
- 長唄三味線方
- 別名
- 初名=杵屋 金次郎,前名=杵屋 小三郎
- 生年月日
- 慶応2年
- 経歴
- 幕末から明治にかけて長唄界の名人といわれた2代目勝三郎の長男。はじめ金次郎、前名小三郎と言った。明治25年ごろ3代目勝三郎を襲名、のち東京座の囃頭となった。
- 没年月日
- 明治36年 9月15日 (1903年)
- 家族
- 父=杵屋 勝三郎(2代目),妻=杵屋 勝三郎(4代目),祖父=杵屋 勝三郎(初代),長女=杵屋 勝三郎(6代目),二女=杵屋 勝三郎(5代目)
出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報
杵屋勝三郎(2世)
きねやかつさぶろう[にせい]
[生]文政3(1820)
[没]1896
長唄三味線方,杵勝派の家元。1世杵屋勝三郎の実子。天保 11 (1840) 年,杵屋小三郎から2世杵屋勝三郎に襲名。弘化2 (1845) 年,立三味線に昇進する。住所の日本橋馬喰町にちなんで世に「馬場の鬼勝」と呼ばれた。長唄界古今を通じての名人で,幕末から明治前期にかけて,3世杵屋勘五郎,3世杵屋正次郎とともに作曲の三傑と称せられた。劇場に出向くかたわら,歌舞伎舞踊に付随して発展してきた長唄の独立をはかり,あるいは明治初期に衰退の兆しをみせていた謡曲を積極的に長唄に取り入れるなど,独特の長唄を作曲して杵勝派発展のために多大な功績を残した。作品に『都鳥』『鞍馬山』『連獅子』『時雨西行 (しぐれさいぎょう) 』『靫猿』『船弁慶』『安達原』などがある。従来,勝三郎家は勝五郎家の門弟筋にあたったが,2世勝三郎が名人であったため,その後は勝三郎家が杵勝派の家元となった。
杵屋勝三郎(1世)
きねやかつさぶろう[いっせい]
[生]?
[没]安政5(1858)
長唄三味線方,杵勝派の家元。1世杵屋勝五郎の門弟。文化~天保年間 (1804~44) に歌舞伎長唄の三味線方として活躍。
杵屋勝三郎(7世)
きねやかつさぶろう[ななせい]
[生]1927.9.24.
長唄三味線方,杵勝派の家元。本名坂口守男。市村亀蔵 (父) と6世勝三郎 (母) の間に生れ,出生と同時に勝三郎家の養子となる。4世杵屋勝太郎,5世杵屋和吉に師事,1941年7世を襲名した。杵勝会を主宰。
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杵屋勝三郎【きねやかつさぶろう】
長唄三味線方の芸名。現在は7世。2世〔1820-1896〕は幕末明治にかけて活躍,杵勝派を隆盛に導いた。《時雨西行》《船弁慶》《安達原》など名作を多く残し,3世杵屋勘五郎(11世杵屋六左衛門),3世杵屋正次郎とともに作曲の三傑と称された。日本橋馬喰町に住んでいたが,昔そこに馬場があったことから〈馬場の鬼勝〉ともいわれた。
→関連項目黒塚
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杵屋勝三郎(2代)
没年:明治29.2.5(1896)
生年:文政3(1820)
江戸末期から明治期にかけての長唄三味線方。初代杵屋勝五郎の門弟であった初代勝三郎の子。前名を小三郎といい,天保11(1840)年に2代目を襲名した。初音(追回し)の馬場のあった江戸日本橋馬喰町に住み,作曲,演奏ともに優れ左右両手ともによく利いたので,「馬場の鬼勝」と呼ばれた。力強く豪快な演奏ぶりであったという。幕末から明治にかけて数多くの作曲を行い,「都鳥」「勝三郎連獅子」「船弁慶」などが知られているが,なかでも「船弁慶」の豪快な持ち味はこの人の演奏にふさわしいものであっただろう。ほかに「菖蒲ゆかた」「喜三の庭」など,当時名人として並び称された3代目杵屋正次郎との合作もある。明治期になってから「船弁慶」や「安達原」など能楽に題材を取った作曲がみられるが,これは当時,苦境にあった能楽師たちとの協力によるもので,勝三郎の大きな業績のひとつである。<参考文献>町田嘉章『長唄浄観』
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
杵屋 勝三郎(4代目)
キネヤ カツサブロウ
明治・大正期の長唄三味線方
- 生年
- 慶応4年8月28日(1868年)
- 没年
- 昭和4(1929)年8月25日
- 出生地
- 東京・深川区森下町
- 本名
- 坂口 カメ
- 経歴
- 幼少から市川成師に舞踊を習い、21歳で2代目勝三郎に入門、のち3代目勝三郎と結婚し技を磨いた。明治37年早世した夫の後を継いで4代目を襲名。大正15年長唄協会の相談役に推され、また幹部技芸員に選ばれた。人格者であり、技にも優れ明治、大正、昭和3代にわたって活躍した。舞踊はもちろん、茶の湯もよくした。
杵屋 勝三郎(6代目)
キネヤ カツサブロウ
昭和期の長唄三味線方 杵勝派家元。
- 生年
- 明治21(1888)年9月22日
- 没年
- 昭和39(1964)年9月22日
- 出生地
- 東京
- 本名
- 市村 いそ
- 経歴
- 3代目勝三郎の長女で、歌舞伎俳優の市村亀蔵と結婚した。5代目を襲名した実妹がわずか1カ月で死亡したため、昭和6年6代目杵屋勝三郎を襲名、長唄三味線方の杵勝派家元として名跡を継いだ。
杵屋 勝三郎(5代目)
キネヤ カツサブロウ
明治〜昭和期の長唄三味線方
- 生年
- 明治24(1891)年
- 没年
- 昭和4(1929)年9月25日
- 本名
- 坂口 照子
- 別名
- 前名=杵屋 照子
- 経歴
- 3代目勝三郎と4代目勝三郎の次女、6代目勝三郎の妹に当たる。幼少から父母の指導を受け、名取として母を助け、門弟を指導した。母の死後5代目を襲名したが、1カ月後に死去した。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
杵屋勝三郎(7代) きねや-かつさぶろう
1927-2010 昭和-平成時代の長唄三味線方。
昭和2年9月24日生まれ。父は3代市村亀蔵。母は6代杵屋勝三郎。昭和10年初舞台。16年7代杵屋勝三郎を襲名,杵勝会を主宰する。21年長男・杵屋清治郎が8代杵屋勝三郎を襲名。平成22年6月27日死去。82歳。東京出身。慶大卒。本名は坂口守男。
杵屋勝三郎(2代) きねや-かつさぶろう
1820-1896 江戸後期-明治時代の長唄三味線方。
文政3年生まれ。初代杵屋勝三郎の子。初名は小三郎。天保(てんぽう)11年2代目を襲名。弘化(こうか)2年江戸市村座の立三味線。日本橋馬喰(ばくろ)町にすんで「馬場の鬼勝」とよばれる。演奏,作曲ともにすぐれた。以後勝三郎の名は杵勝(きねかつ)派の家元名として7代をかぞえる。明治29年2月5日死去。77歳。作品に「都鳥」「時雨西行(しぐれさいぎょう)」など。
杵屋勝三郎(6代) きねや-かつさぶろう
1888-1964 昭和時代の長唄三味線方。
明治21年9月22日生まれ。3代杵屋勝三郎の長女。5代勝三郎の姉にあたる。歌舞伎役者3代市村亀蔵と結婚。5代目の死後,昭和6年に6代を襲名,杵勝派(きねかつは)家元の名跡を暫定的についだ。昭和39年9月22日死去。76歳。東京出身。本名は市村いそ。
杵屋勝三郎(4代) きねや-かつさぶろう
1868-1929 明治-昭和時代前期の長唄三味線方。
慶応4年8月28日生まれ。2代杵屋勝三郎に師事。3代勝三郎と結婚。夫の死後,明治37年4代を襲名,杵勝派(きねかつは)家元となる。昭和4年8月25日死去。62歳。江戸出身。本名は坂口カメ。
杵屋勝三郎(3代) きねや-かつさぶろう
1866-1903 明治時代の長唄三味線方。
慶応2年生まれ。2代杵屋勝三郎の長男。金次郎,小三郎をへて,明治25年ごろ3代目を襲名,杵勝派(きねかつは)家元となる。東京座の囃子頭(はやしがしら)もつとめた。明治36年9月15日死去。38歳。
杵屋勝三郎(5代) きねや-かつさぶろう
1891-1929 明治-昭和時代前期の長唄三味線方。
明治24年生まれ。3代杵屋勝三郎の次女。父および母(4代勝三郎)に師事。母の死後ただちに5代を襲名したが,1ヵ月後の昭和4年9月25日に死去。39歳。東京出身。本名は坂口照子。
杵屋勝三郎(初代) きねや-かつさぶろう
?-1858 江戸時代後期の長唄三味線方。
初代杵屋勝五郎の門弟。文化から天保(てんぽう)のころに活躍。天保11年勝作と改名した。安政5年10月19日死去。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
杵屋 勝三郎(4代目) (きねや かつさぶろう)
生年月日:1868年8月28日
明治時代;大正時代の長唄演奏家
1929年没
杵屋 勝三郎(6代目) (きねや かつさぶろう)
生年月日:1888年9月22日
昭和時代の長唄三味線方
1964年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
世界大百科事典(旧版)内の杵屋勝三郎の言及
【喜三の庭】より
…作詞者未詳。作曲者は前半合方まで2世杵屋(きねや)勝三郎,後半は3世杵屋正次郎と伝えられている。前半は三下りで,山田流箏曲《[小督(こごう)の曲]》の影響を受け,源仲国が小督を探した嵯峨野の秋の情趣をうたい,箏の手事の長い合方を加え,後半は二上りで,がらりと俗にくだけて廓の行事を秋草にこと寄せて述べ,豊年祝いの詞で結んでいる。…
【狸】より
…(3)長唄の曲名 本名題《昔噺狸(むかしばなしたぬき)》。1864年(元治1)木場の宴会の余興として作られたものといわれ,2世[杵屋(きねや)勝三郎]作曲。狸に関する話をまとめたもので,長唄としては珍しく茶気満々たる滑稽な曲。…
【長唄】より
…一方,前代に全盛をきわめた変化物舞踊もようやく行詰りをみせはじめ,さらに幕藩体制の崩壊,長唄愛好者の大名,旗本の高尚趣味の影響もあって,長唄にも復古的な傾向が現れ,謡曲を直接にとり入れた曲が作曲されるようになり,前述の《鶴亀》や《勧進帳》《竹生島》などが生まれた。この時期の唄方には天保の三名人といわれる3世芳村伊十郎,岡安喜代八,2世富士田音蔵,三味線方に10代目杵屋六左衛門,4世杵屋六三郎,5世杵屋三郎助(のち11代目杵屋六左衛門,3世勘五郎),2世[杵屋勝三郎],囃子方に4世望月太左衛門,6世田中伝左衛門などがいる。明治前期(明治30年ころまで)では三味線方の3世杵屋勘五郎,2世杵屋勝三郎,3世杵屋正次郎が作曲の三傑として傑出している。…
※「杵屋勝三郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」