日本大百科全書(ニッポニカ) 「松宮観山」の意味・わかりやすい解説
松宮観山
まつみやかんざん
(1686―1780)
江戸中期の兵学者、国学者。通称左司馬(さじま)、名は俊仍(としつぐ)、のち主鈴(しゅれい)と称し、観山、旧貫(きゅうかん)と号した。下野(しもつけ)国(栃木県)に生まれる。14歳のときに江戸へ出て浪士松宮政種(まさたね)の養子となり、北条流兵学を北条氏如(ほうじょううじすけ)(1666―1727)に学んだ。以来1726年(享保11)師の致仕に至る25か年、その任地や調査地に随行して実地の兵法学の修行を深め、『享保国絵図(きょうほうくにえず)』の作成にも関与した。その学識は神儒仏の三教にわたり、測地、地理、天文や柔術などにも通じていた。著述も『分度余術(ぶんどよじゅつ)』(1728)『士鑑用法直旨鈔(しかんようほうじきししょう)』をはじめ、国学者の立場で論じた『学論(がくろん)』『学脈弁解(がくみゃくべんかい)』『和学論(わがくろん)』など多数に上った。1768年(明和5)山県大弐(やまがただいに)の明和事件に連座して江戸構(かま)いを命ぜられ、晩年は不遇であった。
[渡邉一郎 2016年7月19日]