林鵞峰(読み)はやしがほう

精選版 日本国語大辞典 「林鵞峰」の意味・読み・例文・類語

はやし‐がほう【林鵞峰】

  1. 江戸前期の儒者。名は恕・春勝。字は子和。号春斎・桜峰など。羅山の第三子。京都生まれ。那波活所漢学を、松永貞徳和学を学び、一七歳で江戸に下り、弟の読耕斎とともに幕府儒官として父と「寛永諸家系図伝」「本朝通鑑」などを編纂。林家の私塾を幕府の学校のような扱いに昇格させた。詩文への関心も深い。著「国史館日録」「鵞峰林学士全集」「本朝一人一首」など。元和四~延宝八年(一六一八‐八〇

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「林鵞峰」の意味・わかりやすい解説

林鵞峰
はやしがほう
(1618―1680)

江戸前期の儒者。名は春勝、恕(しのぶ)。字(あざな)は子和(しわ)、のちに之進(ししん)。薙髪(ちはつ)して春斎と称し、鵞峰、向陽子と号す。京都で生まれ育つ。羅山(らざん)の三男であったが、兄2人が早世したので家を継ぐ。父のほか那波活所(なわかっしょ)、松永貞徳(まつながていとく)に学ぶ。1633年(寛永10)江戸に下り、翌1634年将軍家光(いえみつ)にまみえ、1638年には評定(ひょうじょう)席に出仕して、公事(くじ)訴訟のことにあずかる。以後、幕府に仕えて、外交や文教政策の遂行にかかわり、忍ヶ岡(しのぶがおか)の学問所に拠(よ)りつつ儒教研鑽(けんさん)・発展に努める。鵞峰は、博覧強記で広く漢籍に通じ、五経の私考を著すなど経学上の功績が大きい。また史学に秀で、幕命により父羅山の遺業を継いで日本の通史の編纂(へんさん)にあたり、1670年(寛文10)『本朝通鑑(ほんちょうつがん)』310巻を完成し、ほかに『日本王代一覧』(1652成立)などの史書を著す。これらの史書は、儒教的歴史観にたちつつ、新たな日本の歴史像を定立したもので、文化史・思想史上の意義が大である。

[玉懸博之 2016年6月20日]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「林鵞峰」の意味・わかりやすい解説

林鵞峰
はやしがほう

[生]元和4(1618).5.29. 京都
[没]延宝8(1680).2.28. 江戸
江戸時代前期の儒学者。林羅山の第3子。名は恕,春勝。字は子和,改字は之道。春斎と称した。鵞峰は 18あまりある号のうちの一つ。文穆と私諡。幼時父羅山の江戸移住に際し母とともに京にとどまり,文詞を那波活所,書を松永貞徳に学んだ。 17歳で江戸に移り,江戸幕府儒官,のち林家第2代として治部卿法印,弘文院学士となり,『寛永諸家系図伝』 (1643) ,『本朝通鑑』 (70) の編集に寄与。『鵞峰文集』 (120巻) ほか著書多数。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「林鵞峰」の解説

林鵞峰
はやしがほう

1618.5.29~80.5.5

江戸前期の儒学者。羅山の三男。名は又三郎・春勝・恕,字は子和・之道。春斎・鵞峰・向陽軒などと号す。文穆は私諡。那波活所(かっしょ)に師事後,幕府に出仕。1657年(明暦3)林家を継ぎ幕政に参与。63年(寛文3)将軍徳川家光に五経を講じ弘文院学士号を得る。日本史に通じ,「本朝通鑑」「寛永諸家系図伝」などの幕府初期の編纂事業を主導し,近世の歴史学に強い影響を与えた。彼が整備した林家学塾の組織は,のちの昌平坂学問所の基礎となった。「鵞峰先生林学士文集」がある。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「林鵞峰」の解説

林鵞峰 はやし-がほう

1618-1680 江戸時代前期の儒者。
元和(げんな)4年5月29日生まれ。林羅山(らざん)の3男。那波活所(なば-かっしょ),松永貞徳に師事。寛永18年父とともに「寛永諸家系図伝」の編修にあたる。明暦3年林家をつぐ。寛文10年(1670)「本朝通鑑(つがん)」を完成。延宝8年5月5日死去。63歳。京都出身。名は春勝,恕(しのぶ)。字(あざな)は子和,之道。別号に向陽軒など。僧号は春斎。編著に「日本王代一覧」「本朝一人一首」など。

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367日誕生日大事典 「林鵞峰」の解説

林鵞峰 (はやしがほう)

生年月日:1618年5月29日
江戸時代前期の儒学者
1680年没

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世界大百科事典(旧版)内の林鵞峰の言及

【寛永諸家系図伝】より

…寛永年間(1624‐44)に江戸幕府が編修した系譜集。仮名本・真名本各186冊。清和源氏・藤原氏・平氏・諸氏の4類,および医者・同朋・茶道に分け収録。1641年2月7日に太田資宗が諸家の系図を編修し差し上ぐべき旨の上意をうけ,同人が総裁,林羅山・鵞峰が編集責任者となり事業を推進,43年9月17日に両本都合372巻が献上された。献上の仮名本(続群書類従完成会より活字本刊行中)は内閣文庫に,真名本(重要文化財)は日光東照宮に所蔵されている。…

【玉露叢】より

…著者不詳。林羅山あるいは林鵞峰著とする説があるが,確かではない。1674年(延宝2)の自序によれば,著者若年よりの見聞を得るにしたがって,日次記(ひなみき)のように書きつけたという。…

【林梅洞】より

…名は,字は孟著,通称は又三郎。林鵞峰(がほう)(羅山の三男)の長男として江戸に生まれる。幼時から穎才(えいさい)を現し,将来を嘱望されていたが,24歳で夭逝した。…

【本朝通鑑】より

…神代から1611年(慶長16)に至る間の漢文による編年体の史書。林羅山・林鵞峰著。310巻。…

【林家】より

…〈はやしけ〉の音読による呼称で,江戸時代,林羅山を初代として幕府の教学に関与すること12代に及んだ家。1607年(慶長12)羅山が徳川家康に登用され,諸法度の起草,外交文書の起案など枢機に参与し,側近者的役割を果たし,秀忠,家光にも出仕し,その忍岡(しのぶがおか)の家塾は幕府の学問所的役割を担い,江戸の漢学興隆の基を開いた。次の鵞峯(がほう)も治部卿法印,弘文院学士としてその役割を継承し,3代の鳳岡(ほうこう)は蓄髪して大学頭に任ぜられ,将軍綱吉の学問振興策に際会し教学の中心となった。…

※「林鵞峰」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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