柳村(読み)やなぎむら

日本歴史地名大系 「柳村」の解説

柳村
やなぎむら

[現在地名]日原町柳村

程彼ほどがの村の西、高津川の支流柳川の上流に位置する。集落は柳と椛井谷かばいだににある。山陰道は宿谷しゆくのたに村からおにヶ峠を越えて柳へ入り、うらおれ峠を登って徳城とくじよう峠から小瀬こぜへ降りていた。徳城峠には人馬の休息所として茶屋があり、藩主の籠立てがあった。蓬莱糖という名物の菓子を売っていた。慶長五年(一六〇)の関ヶ原合戦後に幕府領(石見銀山領)となり、同七年の検地高一〇三石余(「亀井家領郷村高帳」日原町史)。元和三年(一六一七)津和野藩領となる(「竹村丹後守引渡証文」亀井家記稿本)。寛永一四年(一六三七)の高三九三石余、田二八町八反余・畑二七町八反余(「検地帳」日原町史)。延宝八年(一六八〇)の青原手鑑(日原町立歴史民俗資料館蔵)によると家数三八(本百姓二四・下人一四)・人数二〇三、牛二一・馬一〇、紙漉舟三〇、天神ノ宮一、広地森四・荒神森四・水神森四。


柳村
やなぎむら

[現在地名]鈴鹿市柳町

土師はぜ村の西、鈴鹿川旧河床の自然堤防上にある。古くはやなぎとも書いた。建久三年(一一九二)八月の神領注文(神宮雑書)に「楊御厨 件御厨、去保元年中建立之、供祭物 年内上分米五石」とあり、御厨は保元年中(一一五六―五九)の成立。また「神鳳鈔」にも「内宮柳御厨十丁、五石」とある。元弘三年(一三三三)より建武二年(一三三五)に至る間の成立と推定される足利尊氏・直義所領目録(比志島文書)に「柳御厨泰家跡」とあり、鎌倉末期には執権北条高時の弟泰家の所領であった(年不詳「足利氏所領目録」同文書)。建武二年九月二日の太政官符(神宮文庫蔵御鎮座伝記紙背文書)に「応為二所大神宮領、当国柳名以下参拾弐箇所事」とあり、そのなかに「伊勢国柳名年貢不輸、恵清跡」とみえる。


柳村
やなぎむら

[現在地名]門司区柳町一―四丁目・高田たかだ一―二丁目・大里戸だいりとうえ一―四丁目・城山町しろやまちよう松崎町まつざきちよう寺内じない四丁目・永黒ながぐろ一―二丁目・奥田おくだ一―五丁目

大里村の東に位置し、北は弐十町にじつちよう村に接する。中世より柳浦などとみえ、往昔は内裡(大里)の海辺辺りまでを柳と称したという。上柳・下柳および枝郷(大久保・奥田)に分れていた。天正一一年(一五八三)定松家の先祖弥六右衛門が庄屋になったという(「定松家系図」門司郷土叢書)。慶長六年(一六〇一)の検地で高一六八石余であったが、同一四年の検地で新たに打出しがあり、二口で高二二六石余とされたことから、百姓は逃散し、他国から入る者もなく、村方ははなはだ迷惑しているとして、元和九年(一六二三)一一月一五日付の訴状を小倉表の目安箱に投げた。


柳村
やなぎむら

[現在地名]小値賀町柳郷やなぎごう

小値賀島の北部に位置する。北西部に大長崎おおながさき小長崎こながさきが突き出し、北東沖にのう島がある。地内に中世の渡海船が用いたとされる碇石や南北朝期の宝篋印塔などがある。浄土宗の柳池山長寿院善福ぜんぷく寺は元亀二年(一五七一)称蓮社専誉による開山と伝え(蓮門精舎旧詞)、同年銘の百万遍念仏供養碑(高さ一七〇センチ・幅八〇センチ)や、即非書の長楽寺額がある。唐からの漂来経と伝える大般若経(現存は約三〇〇帖)は「唐朝大明国臣」の奥書があるものや、明徳―応永年間(一三九〇―一四二八)などに島内で書写されたものを含み、もと神島こうじま神社別当の万福まんぷく寺にあったものという。


柳村
やなぎむら

[現在地名]今立町柳

炭焼すみやき村の東に位置し、水間みずま谷の谷奥にある。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では水間村に含まれたが、元禄郷帳で分村、村高は二七七・九四三石。このとき水間村は八ヵ村(坂下・殿・大谷・印内・赤谷・炭焼・柳・市野々)に分れ、農地は村切されたが山については境界を明らかにせず、その後も八ヵ村の入会山として存続した。文化元年(一八〇四)坂下村明細帳(長谷川家文書)に「百姓馬草山之儀ハ柳村奥字惣名ニうしロ谷と申所往古ヨリ八ケ村立会山ニ馬草・柴・杪・茅一切刈取御田地之肥ニ仕、且又柴薪之類農業之間々ニ刈置市町迄持出売、為代替飯料其外都稼方年中家業之助ニ仕候」とあり、八ヵ村の農民が柳村地籍の入会山に深く依存していたことを示している。


柳村
やなぎむら

[現在地名]大井町柳

長篠ながしの山南西隅斜面に位置し、中村なかむら川上流の棚田たなだ川が北より東に流れ、東は高尾たかお村、西は山田やまだ村、南は赤田あかだ村、北は篠窪しのくぼ村と接する。小田原衆所領役帳に篠窪民部丞「拾七貫三百卅文 西郡柳之村」とあり、天正一八年(一五九〇)四月日の豊臣秀吉掟書(県史三)に「柳村」と記す。

近世は元禄一一年(一六九八)まで小田原藩領、同年大久保教寛に分知、宝永五年(一七〇八)より幕府直轄領、天保一四年(一八四三)より小田原藩領。


柳村
やなぎむら

[現在地名]蘇陽町柳

川走かわばしり川の上流(柳川)にあり、東は東竹原ひがしたけばる村・西竹原にしたけばる村、西は高森たかもり(現高森町)、北は高尾野たかおの村・矢津田やつだ(現高森町)、南は早楢わさなら村・梶原かじわら村に接する。阿蘇郡南郷之図(「国誌」所収)によれば、高森から高畑たかばたへ通じる道沿いに柳の名がみえる。文明一六年(一四八四)八月二八日の阿蘇十二社同霜宮最花米注文(阿蘇家文書)に「一所やなき二百文 まめ一斗」とみえ、当村の小字である猿丸さるまるも「一所さる丸ひやく文 まめ五升」とある。


柳村
やなぎむら

[現在地名]太子町佐用岡さようおか

平方ひらかた村の南に位置する。嘉暦四年(一三二九)四月日の鵤庄絵図(法隆寺蔵)の東中央部にみえる浜田・師乃原は現在の通称地名ハマダ、シノハラに比定され、上楊田・中楊田・下楊田は村名の由来地と思われる。永正九年(一五一二)平方ひらかた大歳おおとし社の歩射で座敷の席次をめぐり相論が起こり、一方の一番は柳村新兵衛と定められた(「鵤庄引付」斑鳩寺文書)。斑鳩寺記録(同文書)の天正三年(一五七五)条によると、斑鳩いかるが寺の再建に努力した昌仙は当村の出身であった。


柳村
やなぎむら

[現在地名]岡崎市大柳おおやなぎ

大沼おおぬま道を青木あおき川に沿って上り、上流の九十九折りの坂を上りきった地の東方一帯の山間の村落。近世は、初め岡崎藩領で宝暦一二年(一七六二)より幕府領、明和七年(一七七〇)再び岡崎藩領となり明治に至る。


柳村
やなぎむら

[現在地名]度会町柳

一之瀬いちのせ川左岸段丘上に南北に展開する。東方一之瀬川右岸段丘上に向柳むかいやなぎの集落がある。柳の本村といわれ、ともに和井野わいの村よりの分村とも伝える(度会町史)


柳村
やなぎむら

[現在地名]榛原町大字柳

長谷渓谷東端、角柄つのがら村南方に立地。近世は式上郡に属し、慶長郷帳の村高一〇〇・二一石。慶長五年(一六〇〇)織田有楽斎領。元和元年(一六一五)以降戒重藩(のち芝村藩、織田長政)領となり、廃藩置県に至る。


柳村
やなぎむら

[現在地名]吉野町大字柳

竜門りゆうもん岳東南麓、香束こうそく村の東に位置し、伊勢街道に沿う村。竜門郷のうち。慶長郷帳の村高四四二・四二石。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の柳村の言及

【上田敏】より

…英・仏文学者,詩人,評論家。初期には柳村と号した。旧幕臣の子で東京築地の生れ。…

※「柳村」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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