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大正政変 タイショウセイヘン

世界大百科事典 第2版の解説

たいしょうせいへん【大正政変】

1913年の憲政擁護の民衆運動で第3次桂太郎内閣が倒された政変。1912年陸軍の二個師団増設問題で第2次西園寺公望内閣が倒れると,元老会議での後継首班推薦は難航し,結局この年8月大正天皇即位にともない内大臣として宮中入りした桂太郎を推薦した。桂はとくに天皇に詔勅を出させて組閣に着手し,軍備拡張を入閣の条件とした海軍大臣斎藤実をも詔勅によって留任させ,組閣を完了した。こうした軍部の横暴,桂の再度の詔勅による組閣に対する藩閥の非立憲的行動に,ジャーナリスト,政党院外団,交詢社系の実業家,政治家は憲政擁護会を結成,〈閥族打破,憲政擁護〉をスローガンに運動を起こした。

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大辞林 第三版の解説

たいしょうせいへん【大正政変】

1913年(大正2)第一次護憲運動により第三次桂内閣が打倒された政変。軍部の圧力により西園寺内閣が倒され、長州閥の桂太郎が組閣すると、政党・実業家有志・ジャーナリスト・市民らの憲政擁護運動が高まり、桂内閣は総辞職した。 → 憲政擁護運動

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

大正政変
たいしょうせいへん

1913年(大正2)2月、第一次憲政擁護運動によって第三次桂(かつら)太郎内閣が倒れた政変。前年12月、2個師団増設要求がいれられず上原勇作(うえはらゆうさく)陸相が辞任、陸軍が後任陸相を出さなかったため、第二次西園寺公望(さいおんじきんもち)内閣は総辞職し、宮中に退いた内大臣桂太郎が組閣した。この事態は陸軍・藩閥の横暴と受け止められ、憲政擁護運動を興起させた。桂首相は従来のような政友会との妥協策をとらず、議会の停会を重ねながら新党(立憲同志会)結成によって事態を打開しようとしたが、民衆運動の激高、政友会の護憲運動への全面的参加のなかで孤立し、2月10日民衆が議会を包囲するなかで総辞職を決めた。民衆の政治的成長が背景にあり、長州閥と政友会の提携である桂園時代を終わらせるとともに、陸軍の独走を抑え、大正デモクラシー状況を大きく切り開く意義をもった。[阿部恒久]
『山本四郎著『大正政変の基礎的研究』(1970・御茶の水書房) ▽由井正臣「2個師団増設問題と軍部」(『駒沢史学』第17号所収・1970・駒沢大学史学会) ▽坂野潤治著『大正政変』(1982・ミネルヴァ書房)』

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世界大百科事典内の大正政変の言及

【護憲運動】より

…停会あけの議会で尾崎行雄は桂の詔勅政策を批判する演説を行うなど民党の結束は固く,2月10日には数万の民衆が議会を包囲するなかで,桂内閣は民衆の革命化を恐れてついに辞職した。この大正政変と呼ばれる政変は,民衆の力が内閣を倒した最初であった。 桂内閣のあと政友会の支持をえて海軍の巨頭で薩摩閥の山本権兵衛が内閣を組織した。…

【明治時代】より

…これは,明治天皇の践祚が1867年1月9日であるため,天皇の在位期間と一致せず,一世一元制の採用以前の時期を包摂できない。歴史学上での時期区分からすれば,1853年(嘉永6)ペリーの来航に始まる幕末・維新期の激動の時代から,明治天皇の没後に新しい時代の台頭を象徴する事件として生起した大正政変のころまでを指すのが適切であろう。さらに,明治時代を時期区分するとすれば,まず1877年の西南戦争までの明治維新期,ついで1890年までを自由民権運動と明治憲法体制の成立の時期として区切ることができ,さらに日清戦争を経て1900年前後までの帝国主義成立期,それ以後の日露戦争をはさむ帝国主義確立の時代に区分することが可能である。…

※「大正政変」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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