梅田村(読み)うめだむら

日本歴史地名大系 「梅田村」の解説

梅田村
うめだむら

[現在地名]浅羽町梅山うめやま

新堀にいぼり村の南に位置する。天正一七年(一五八九)九月四日付で倉橋長右衛門昌次が奉者となって徳川家七ヵ条定書(梅山自治会文書)が「梅田村」宛に交付された。慶長九年(一六〇四)遠州総検地が実施され、全六冊の検地帳のうち本田分三冊・高新田分一冊が残る。また正保四年(一六四七)には横須賀藩主本多利長による新田検地が行われたが、その際に写された慶長検地帳が六冊残る(以上、梅山自治会文書)。以上によると慶長検地の内訳は上田二九二筆・一三町九反余、中田三〇五筆・一七町七反余、下田三二三筆・二六町五反余、田方合計五八町二反余、上畑一〇二筆・四町余、中畑五四筆・一町五反余、下畑七〇筆・一町八反余、畑方合計七町四反余、ほかに屋敷地三五筆・一町三反余。寛永二一年(一六四四)の掛川預一万石郷村覚によると高六二四石余。


梅田村
うめだむら

[現在地名]金沢市梅田町

観法かんぽう寺村の北に位置。遊行二代他阿真教(在位一二八九―一三〇四)の法語(「二祖他阿上人法語」時宗宗典)に「梅田の師阿弥陀仏へつかはさる御返事」があり、出家往生のためには僧尼の交わりを厳禁すべきこと、人を教訓するにはまず自らを厳しく律すべきことを諭している。真教の加賀国遊行は正応四年(一二九一)頃とされ(遊行上人縁起絵)、遊行三代智得(在位一三〇四―一九)の入門は同三年の三〇歳のときとする説(「時宗血脈相続之次第」来迎寺文書)と永仁六年(一二九八)の三九歳のときとする説(「遊行系図」彰考館蔵)がある。智得は当地に近い加賀堅田かただの出身と伝えられるので(時宗血脈相続之次第)、真教の加賀国遊行の折入門したのであろう。時衆過去帳(清浄光寺蔵)には元徳二年(一三三〇)六月二九日六代一鎮に結縁した師阿の名がみえ、その裏に「梅田」と記される。


梅田村
うめだむら

[現在地名]春日部市梅田一―二丁目・梅田・栄町さかえちよう

粕壁かすかべ宿の北に位置し、古利根川西岸と古隅田ふるすみだ川北岸の間の沖積地に立地する。西は内牧うちまき村。粕壁宿内に飛地があった。埼玉郡百間もんま領に属した(風土記稿)。田園簿によれば田八七石余・畑一四六石余で岩槻藩領。延宝八年(一六八〇)の岩付領内村名石高家数人数寄帳(吉田家文書)によると家数三二(本百姓一九・分ケ地五・水呑八)、人数二三一。ほかに梅田新田が記載され、家数九(本百姓八・水呑一)、人数六七。貞享三年(一六八六)の岩槻藩領郷村高帳では高四五七石余・新田高一〇五石余、ほかに野銭永一七〇文・見取場一町四反余。


梅田村
うめだむら

[現在地名]五所川原市梅田

東は中泉なかいずみ村、西は松倉まつくら(現北津軽郡鶴田町)、南は横萢よこやち(現鶴田町)、北は川を境に広田ひろた村に接する。

貞享四年(一六八七)の検地帳に横萢村支村梅田村として田方一七一町六反一四歩・畑方八一町四反七畝一一歩、田畑屋敷合せて二五三町七畝二五歩、村高一八七三・九一八石とあり、検地帳の貼紙から享保一一年(一七二六)に本村となったことがわかる。「平山日記」寛永一八年(一六四一)に「下柏木派立之節、柏大木御座候ニ付下柏木と成由、後ニ梅田村と改ル」、貞享四年に「下柏木ハ梅田ト成り」とあり、当村は柏木かしわぎ(現北津軽郡板柳町)の派立として下柏木とよばれ、貞享検地以来梅田村となった。


梅田村
うめだむら

[現在地名]足立区梅田一―八丁目・関原せきばら一―三丁目・西新井栄町にしあらいさかえちよう一丁目など

千住五丁目の北に位置し、北は島根しまね村、北西は栗原くりはら村。中央を南北に日光道中が通る。元和二年(一六一六)北三谷きたさんや新田(北三谷村)の開発人である河合平内の抱名主・百姓中に宛てて発給された千住榎木新田の開発定書(足立区立郷土博物館所蔵文書)は当村の榎戸えのきどに比定されているが、花又はなまた村の字榎戸とする説もあり定かではない。


梅田村
うめだむら

[現在地名]長洲町梅田

西部をうら川が南流し、東は高浜たかはま村、北は牛水うしのみず(現荒尾市)、西は長洲村、南は長洲村・清源寺せいげんじ村と接する。「藤公遺業記」によると、慶長一二年(一六〇七)加藤清正は、菜切なきり塘・塩屋しおや塘とともに塘筋三一九間、田畝数六〇町余の古塘新地を造成したという。当村と長洲村を結んで築堤された古塘は、現在は町道長洲港―停車場線の一部となっている。近世は荒尾手永に属する。寛永一六年(一六三九)の地撫帳表紙に「荒尾弥左衛門手永御給知梅田村」とみえる。宝暦八年(一七五八)の下ケ名寄帳によると惣畝数五七町八反七畝余、高三六五石五斗余、下ケ名は二二を数え、西ノ浦・五反田・浦田・堀崎などは明治の「郡村誌」にみえず、岩原は上下に分れていない。


梅田村
うめだむら

[現在地名]赤碕町梅田

くろ川の下流左岸に位置し、同川を挟んで東は篦津のつ村・湯坂ゆざか村。拝領高は二八石余、本免は八ツ。藪役銀二匁を課されており(藩史)、栗田氏の給地であった(給人所付帳)。幕末の六郡郷村生高竈付によれば生高五二石余、竈数一三。文久二年(一八六二)の八橋郡村々諸事書上帳(峰地家文書)では家数一五・人数五五、林野三〇町二反余。産土神は湯坂村の新宮大明神(現葦原神社)。地内にあった若宮大明神は梅田神社と改称したのち大正五年(一九一六)葦原あしはら神社に合祀された。


梅田村
うめだむら

[現在地名]湖西市新所原しんじよはら二―三丁目・新所原東しんじよはらひがし・梅田・新所岡崎梅田入会地しんじよおかさきうめだにゆうかいち

岡崎おかさき村の西の丘陵上にあり、西は三河国雲谷うのや(現愛知県豊橋市)。天正七年(一五七九)に新所村から六軒、寛永二年(一六二五)に岡崎村から五軒、新所村から四軒、国境地域から六軒が移住したという(「鈴木又治郎書状控」鈴木家文書)。領主の変遷は岡崎村と同じ。正保郷帳では梅田新田村とあり、田方一五石余・畑方二三石余。元禄郷帳では高五四石余。天保郷帳には古くは梅田新田村と注記される。庄屋は明和六年(一七六九)から岡崎村の庄屋が兼帯した(「万歳覚日記」岡崎区有文書)


梅田村
うめだむら

[現在地名]見附市下鳥しもどり

片桐かたぎり村の北と東、集落は自然堤防上にある。慶長三年(一五九八)頃の新発田御領内高付帳(新発田市史資料)に村名がみえ、田之尻たのしり・片桐両村と合せ四八六石余。寛永一三年(一六三六)の御知行所草高之御帳(新発田市立図書館蔵)によると、新発田藩分家切梅家領で五四石三斗余。のち幕府領、村上藩領となるが、宝永元年(一七〇四)再び幕府領、同四年以降は旗本小浜氏の知行地。同四年の村明細帳(大橋家文書)によれば田二町一反余で、うち一反余は寛文六年(一六六六)には堤であった。


梅田村
うめだむら

[現在地名]阿南町富草とみくさ 梅田

天竜川門原もんばら川が形成する標高約五七〇メートルの台地上に位置。北は新木田あらきだ村、東は天竜川を挟んで明島あけじま村(現泰阜やすおか村)、南は鴨目かもめ村・浅野あさの村、西は粟野あわの村に接する。

天正一六年(一五八八)毛利領、文禄二年(一五九三)京極領、慶長五年(一六〇〇)小笠原領、同一七年脇坂領、元和四年(一六一八)旗本近藤領となり、明治に至る(長野県町村誌)


梅田村
うめだむら

[現在地名]葛飾区立石たていし二―五丁目・同七丁目・奥戸おくど七丁目など

立石村の西に位置し、北は中原なかはら村、南ははら村、西は篠原しのはら村。田園簿に村名がみえ、田九二石余・畑八石余。元禄郷帳では高一三八石余。「風土記稿」の中原村の項によれば中原村とともに立石村から早くに分れたとされる。村の北に高札場があった。


梅田村
うめだむら

[現在地名]下津町梅田

小南こみなみ村の北東に位置し、西はしも村、南はなか村に接する。「続風土記」に「当村慶安の比小南下村より分れて一村となれるなり、村名の梅は仮字にて埋田の義なり」とあるように、近世初期までは梅田・小南・下は一村で小南下村と称し、慶安年中(一六四八―五二)三村に分れた(→下村。加茂組に属し、宝暦三年(一七五三)改めの加茂組書上(小松原区有文書)によると梅田村は本田畑高一二五・二一七石、新田畑高〇・八〇五石、開起田畑〇・〇六石、戸数三四、人数一八一。


梅田村
うめだむら

[現在地名]和島村梅田

吉田よしだ村の東、北は籠田かごた村、東・南は小島谷おじまや村。正保国絵図に高一七二石余とみえ幕府領。元和二年(一六一六)以後は幕府領出雲崎いずもざき代官所支配に属したと思われる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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