楠村(読み)くすのきむら

日本歴史地名大系 「楠村」の解説

楠村
くすのきむら

[現在地名]清水市楠

新田北西ともえ川の中流右岸にある。楠木とも書く。正応六年(一二九三)七月二九日の関東下知状(鶴岡八幡宮文書)に「楠木村」とみえ、長崎ながさき郷三分の一とともに幕府によって鎌倉鶴岡八幡宮に寄進されている。貞和二年(一三四六)五月二一日当村の田畠以下のことに関する鶴岡八幡宮供僧智円の訴えにより、鎌倉府は大進僧都に参洛して弁明するよう命じている(「関東管領上杉憲顕奉書」池田文書)。「鶴岡事書日記」応永三年(一三九六)二月一三日条によると、鶴岡八幡宮寺の衆会で、供僧二階堂民部僧都宗祐が駿河の事情に詳しい人物として、楠木・長崎の代官に決まった。


楠村
くすむら

[現在地名]南知多町内海うつみ

遠迫間とおはざま(内海川)の中流東岸に位置し、東は村、南は利屋とぎや村、西は北脇きたわき村、北は内福寺うつふくじ村に接する。「寛文覚書」によれば、概高二九九石余、田地一一町二反四畝余、畑方九町二反七畝余、戸数三一、人口一八七。将軍上洛・朝鮮使節通行の時人馬を出すとある。「徇行記」によれば「民家ハ山陰ニ建並ヒ小百姓ハカリニテ貧村ナリ」で、他村へ出小作をし、東端ひがしばた村の越高が約八〇石ある。


楠村
くすむら

[現在地名]相知町大字楠

厳木きゆうらぎ川の右岸の支流楠川沿いの山間の村。作礼さくれい山の峰続きのポシャ岳の山腹が村の大半を占める。正保絵図に村名がみえる。

文政の初め、この地が幕府領となり、日田ひた郡代塩谷大四郎が地名の由来をたずねた時、村人は昔、楠村の牟田むたに楠の大木があり、朝日が昇ると、本山もとやま(現厳木町)から横枕よこまくらまで影がさした。のち、朽木となり、その残りの株のみがあると答えた。


楠村
くすのきむら

[現在地名]東予市楠

周桑しゆうそう平野の北部、大明神だいみようじん川の左岸の山麓に近い街村。なか村の北に接する。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)桑村くわむら郡の項に「楠木村 芝山有、小川有」とみえ、石高は九六五石五斗三升五合、うち田方八一八石四升一合、畠方一四七石四斗九升四合とある平地の村。古代の官道の通路にあたり、松山藩領であったが、「松山領里正鑑」によると明和二年(一七六五)幕府領となる。


楠村
くすむら

[現在地名]西尾市楠村町

市の西方に位置し、碧海へきかい台地の端にあり、北は平坂へいさか村、東は山田やまだ(天保郷帳にはない)、南は寺津てらづ村に接し、西は平坂入江をもって西小梛にしこなぎ新田と境する。以前は海浜の村であったが、矢作川改修により幾多の新田が造られ、今日の姿に変わった。「三河国二葉松」には「楠木 磯」とある。阿弥陀あみだ院の山号を「救衆くす山」といい、これが村名となったといわれる。


楠村
くすむら

[現在地名]富村楠

目木めき川支流の川中流域に位置し、北はおお村、東は富仲間とみなかま村、西は大庭おおば釘貫小川くぎぬきおがわ(現真庭郡湯原町)、南は樫西かしにし(現同郡久世町)に接する畑がちの小山村。正保郷帳に高三三石余、うち田方一〇石余・畑方二二石余とある。


楠村
くすむら

[現在地名]中村市楠

高瀬たかせ村の北西、四万十しまんと川右岸の村で、なべもりの東北麓にある。川登かわのぼり村の枝郷。天正一八年(一五九〇)の川登九村地検帳によると楠村の検地面積五町余、屋敷数四(全部居屋敷)。屋敷には泉伝院が含まれる。江戸時代は元禄郷帳によると本田高四八石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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