日本歴史地名大系 「極楽寺跡」の解説
極楽寺跡
ごくらくじあと
〔草創〕
草創について「大鏡」には、仁明天皇が
極楽寺跡
ごくらくじあと
石清水八幡宮一の鳥居内頓宮の北にあった寺。仁和三年(八八七)七月一一日の大安寺安宗置文(「極楽寺縁起」宮寺縁事抄)に
とみえ、元慶七年(八八三)本宮初代別当安宗が寺田等を施入して建立した別当寺である。また石清水祠官系図(石清水八幡宮史)安宗の項には「元慶二年下院極楽寺草創始、自同五年正月二日、至于四月八日、造仏始、自同八年三月廿七日、至仁和元年造堂、仁和三年九月十九日入滅」とみえ、「宮寺秘記」(男山考古録)に「極楽寺御本尊、御長三尺三寸座像、金泥仏、深秘之秘仏也、作者当宮最初別当安宗伝灯大法師、元慶五年正月二日作之、至仁和元年五月廿七日刻仏像畢云々」とみえる。
当寺は安宗のあと本宮四代別当会俗(安宗甥)に伝えられ、以降その門胤の人をもって門徒長者とし寺務を領掌させることにした(延喜一八年三月一一日「極楽寺別当会俗寺家相承議定文」宮寺縁事抄)。「宮寺縁事抄」によると、その後は八代別当清鑒、一二代別当光誉、一八代別当定清、定清の養子兼清、二三代別当頼清、二五代別当光清、二六代別当任清、二八代別当勝清に相承される。この間定清院主の時、幼少だったので聖清が後見したが、聖清は極楽寺を私領として押領しようとし、極楽寺は「如旧可宮寺所領之由」を言上し(長保二年七月三日「裏書」同書)、宣旨を得た。すなわち宮寺所領であって私領(坊領)に加えられないものとされた。
極楽寺跡
ごくらくじあと
極楽寺跡
ごくらくじあと
極楽寺跡
ごくらくじあと
寺跡の山中には瓦窯跡があり、付近から正嘉(一二五七―五九)の年号をもった瓦片も出ている。
極楽寺跡
ごくらくじあと
極楽寺跡
ごくらくじあと
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報