橋向町(読み)はしむかいちよう

日本歴史地名大系 「橋向町」の解説

橋向町
はしむかいちよう

[現在地名]和歌山市橋向丁

和歌川に架かるおお橋東詰の東西の通りの町。「紀伊名所図会」に「橋の東詰には、朝には未明より多くの菜蔬をになひ集ひ、万町の市に積みおくれば、早午時のころにいたるに、瓦町の瓦これまた爰にあつめて諸国に運送す、夕気にむかへば、西南の郷中より茄子・瓜・西瓜・すべての蔓物、高野山領の西郡柿、其余の菓子積み下って、田中町の問丸に積み込むほどに、終日仲衆が水揚のこゑたゆることなく、其嘔唖かまびすしきこと、あたかも楽戸の善才ひとしく合せ奏するににて、誠に繁華の地といふべし」とあり、物資集散地として、新町しんまち地区で最も栄えた町であった。また当町より南は熊野街道、東は伊勢街道・上方街道に通じ、大橋を渡れば広瀬ひろせ地区から和歌山城へ至る交通の要地でもあった。


橋向町
はしむかいまち

[現在地名]彦根市橋向町

橋本はしもと町を善利川せりかわ橋で渡った南にある。元禄八年大洞弁天寄進帳に町名がみえ、軒数六五のうち借家三九、男一二六・女一三九(ほか下人一八)、諸職諸商は紺屋七・大工五のほか茶屋・油屋・酢屋・餅屋・荒物屋蝋燭屋薬屋古手屋臼屋など、町代・横目とも紺屋が勤めた。安永七年(一七七八)の万留書(彦根市史)では町代・横目の二軒ほか年貢地三六軒。朝鮮通信使来訪に伴う享和―文化期(一八〇一―一八)公儀見分朝鮮人案内(同書)によれば町の長さ西側九四軒・東側八六軒で、家数四〇軒・竈数六〇軒、人数二一四。


橋向町
はしむかいまち

[現在地名]魚津市上口かみぐち二丁目

かど川の左岸に位置し、南北に走る北陸街道の両側町。角川橋が当町の北にあり、対岸橋場はしば町。東には角川が北西に向けて大きく蛇行しており、東の住吉すみよし村領に当町を守るための大きな川除(提防)が築かれている。北陸街道は南の新塩屋しんしおや町に続く。天和年中(一六八一―八四)まではおか町の西にあったが、海岸浸食のため元禄年中(一六八八―一七〇四)にこの地に移転してきたという(下新川郡史稿)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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