橘広相(読み)たちばなのひろみ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「橘広相」の意味・わかりやすい解説

橘広相
たちばなのひろみ
(837―890)

平安時代初期の漢学者。橘奈良麻呂(ならまろ)の子孫で、従(じゅ)五位上橘峯範(みねのり)の二男、母は藤原末永の娘。初め博覧(ひろみ)と記していたが、867年(貞観9)広相と改めた。菅原是善(すがわらのこれよし)(道真(みちざね)の父)に学ぶ。875年皇太子貞明(さだあきら)親王(後の陽成(ようぜい)天皇)の侍読(じどく)となり、877年(元慶1)蔵人頭(くろうどのとう)に任ぜられた。884年文章博士(もんじょうはかせ)となり、光孝(こうこう)天皇の侍読を務め、参議に任ぜられた。887年(仁和3)宇多(うだ)天皇が即位したとき阿衡(あこう)事件が生じた。藤原基経(もとつね)を阿衡に任ずる旨の勅答を草した広相は、基経から責任を問われて処罰されようとしたが、事なきを得た。広相の娘の義子(ぎし)は宇多天皇の女御(にょうご)であった。寛平(かんぴょう)2年5月16日死去、中納言従三位(じゅさんみ)を贈られた。『蔵人式』『諸司唐名』『朝官當唐官略抄』のほか、875年の神護寺(じんごじ)鐘銘文の作者として知られている。

[坂本賞三]

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改訂新版 世界大百科事典 「橘広相」の意味・わかりやすい解説

橘広相 (たちばなのひろみ)
生没年:837-890(承和4-寛平2)

平安時代の漢詩人。諸兄の5世の孫。唐名朝綾(ちようりよう)。早熟の天才で菅原是善に師事する。対策に及第した後文章博士東宮学士,右大弁などを歴任し,天皇の侍読を務めた。宇多天皇の即位とともに藤原基経が関白となったが,広相の起草した勅答に〈阿衡(あこう)〉の文字があったため大騒動が起こり1年間政治が空白となった(阿衡事件)。それを苦にしてまもなく死し,中納言従三位を贈られる。《橘氏(きつし)文集》以下著述は多いが散逸した。
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朝日日本歴史人物事典 「橘広相」の解説

橘広相

没年:寛平2.5.16(890.6.7)
生年承和4(837)
平安前期の学者。峯範と藤原末永の娘の子。はじめ博覧と称したが,その名の通り,『江談抄』には,一切経を1週間で読破したり,書物を斜め読みにするだけで要点をつかむといった抜群の能力の持ち主だったことを伝えている。しかし貞観10(868)年,釈迦十大弟子のひとりで知恵第一といわれた舎利弗の別称(博覧比丘)をさけて広相と改めた。道真の父菅原是善に師事して字を朝綾といい,陽成,光孝,宇多3代の天皇の侍読を務めたが,特に宇多からは娘義子がその女御となった関係で格別の寵恩を受けた。仁和3(887)年11月に起きたいわゆる阿衡事件は広相の作成した勅書の文言(「阿衡の任をもって卿の任となすべし」)が原因となった。事件落着後1年余りで没した。『橘氏文集』『蔵人式』などの著書が知られるが,ほとんどが散逸している。著名な神護寺鐘銘の序文も広相の選。<参考文献>坂本太郎『菅原道真』

(瀧浪貞子)

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百科事典マイペディア 「橘広相」の意味・わかりやすい解説

橘広相【たちばなのひろみ】

平安前期の学者。橘諸兄(もろえ)の5世の孫。菅原是善(すがわらこれよし)に学ぶ。参議に任ぜられ,宇多天皇に重用された。宇多天皇と藤原基経の対立の中で起こった阿衡(あこう)事件で,その争いのタネとなった勅答を起草したのが広相であったため,苦境にたったが危うく難をのがれた。著書は《朝官当唐官略抄》《橘氏文集》等が知られるが,現存するものは少ない。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「橘広相」の解説

橘広相 たちばなの-ひろみ

837-890 平安時代前期の公卿(くぎょう)。
承和(じょうわ)4年生まれ。元慶(がんぎょう)8年文章(もんじょう)博士,参議となる。仁和(にんな)3年藤原基経の関白任命に際し,勅答の文案作成で関白職を阿衡(あこう)の任としたため基経が職務を放棄,政治問題となったが(阿衡の紛議),菅原道真(すがわらの-みちざね)の奔走で罪をまぬがれた。寛平(かんぴょう)2年5月16日死去。54歳。同日中納言,従三位を追贈された。初名は博覧。著作に「朝官当唐官略抄」など。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「橘広相」の意味・わかりやすい解説

橘広相
たちばなのひろみ

[生]承和4(837)
[没]寛平2(890).5.16.
平安時代前期の学者。諸兄5世の孫。峯範の子。女義子は宇多天皇女御。陽成,光孝,宇多の3朝に仕え,文章博士,参議となる。仁和3 (887) 年藤原基経を関白にする詔を起草した広相は,藤原佐世の策謀により窮地に陥ったが,菅原道真の弁護で事なきを得た (→阿衡事件 ) 。死後中納言従三位を贈られた。著書に『朝官当唐官略抄』などがある。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「橘広相」の解説

橘広相
たちばなのひろみ

837~890.5.16

平安初期の学者・公卿。父は峰範(みねのり)。はじめ博覧(ひろみ)と称する。869年(貞観11)東宮学士,884年(元慶8)文章博士(もんじょうはかせ)・参議。陽成・光孝・宇多の3天皇の侍読(じとう)を勤めた。宇多天皇の即位にあたって起草した藤原基経を関白に任じる際の勅答が,887年(仁和3)阿衡(あこう)の紛議の原因となり,翌年責任を追及される。死後に中納言従三位を追贈された。著書の「朝官当唐官略抄」「橘氏文集」は逸文のみ伝わる。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

旺文社日本史事典 三訂版 「橘広相」の解説

橘広相
たちばなのひろみ

837〜890
平安前期の学者
文章博士 (もんじようはかせ) ・参議。奈良麻呂の玄孫。菅原是善 (これよし) に学び,文章博士などを歴任した。光孝・宇多天皇の信任をうけたが,888年阿衡事件で詔勅起草の責任を問われ,苦境に陥った。

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世界大百科事典(旧版)内の橘広相の言及

【阿衡事件】より

…しかししだいに対立を深め,ついに884年(元慶8)天皇を廃し,故仁明天皇の皇子時康親王を擁立し,この55歳の老帝光孝天皇のもとで実権をにぎった。その後,887年(仁和3)基経の妹・尚侍淑子と文章博士橘広相(ひろみ)らの奔走によって,すでに臣籍に降っていた皇子源定省(さだみ)が即位すると,親政の意欲をもつ新帝宇多天皇との間に対立が生じた。そのきっかけは,天皇が先代と同様に太政大臣基経に政務を一任する旨の詔書を発した中に,〈よろしく阿衡の任をもって,卿の任となすべし〉との辞があったのに対して,基経が家司藤原佐世の言にしたがい,〈阿衡〉とは実権のない礼遇を意味すると非難し,政務を拒否したことにある。…

【橘氏】より

…その後,橘逸勢(はやなり)(入居の子)は三筆の一人に数えられる書家であったが,842年(承和9)承和の変にまきこまれて流罪に処された。また参議となった橘広相(ひろみ)(奈良麻呂の子嶋田麻呂の3世の孫)は,その女の義子を宇多天皇の後宮に入れ,天皇の信頼を得ていたが,887‐888年(仁和3‐4)の阿衡(あこう)事件で失脚した。以後,橘氏はあまりふるわなかった。…

※「橘広相」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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