檜枝岐村
ひのえまたむら
[現在地名]檜枝岐村葭ヶ平・高屋敷・下見通・滝沢・下ノ原・居平・切払・上ノ原・下ノ台・上ノ台・上河原・左通・大根卸・入畑・駒ヶ岳・燧ヶ岳・黒岩山・帝釈山
伊南川の源流檜枝岐川が北流し、同川に沿って沼田街道が通り、集落は駒ヶ岳(二一三二・四メートル)などの麓の街道沿いにある。古町組に属する。北の大桃村(現伊南村)へ三里八町、東の熨斗戸組木賊村(現舘岩村)へ三里一六町、南の上野戸倉村(現群馬県片品村)へは山越えで八里であった(天保八年「村明細帳」福島県史)。上野との境に尾瀬沼がある。古くは「小屋ノ原」と称したという(檜枝岐村史)。「檜木亦」(文禄三年蒲生領高目録)・「ひのへ又」(慶長二年「藤三郎倉入在々高物成帳」福島県史)・「丙亦」(元和二年「伊南之内丙亦村小打御帳」星家文書)などとも記された。「新編会津風土記」に「此辺の山中に黒檜多き故村名とす」とある。端村に滝沢があり(「会津風土記」など)、寛政七年(一七九五)に本村へ移ったという(新編会津風土記)。当地は上野沼田へ通じる要地であったため、寛永年間(一六二四―四四)に口番所が置かれた(「檜枝岐口番所由来並沿革」福島県史)。
蒲生領高目録によると高六八石余。慶長二年(一五九七)の前掲高物成帳でも同高で、免の記載はないが物成九石一斗。正保二年(一六四五)の年貢割付状写(福島県史)では高一三一石余、免一ツ四分で年貢は金納。寛文五年(一六六五)の伊南郷村々改帳(馬場家文書)でも同高で免一ツ八分、畑のみで二四町八反余。本村の家数三二・竈数五二、男一四二・女一一八、馬三。滝沢の家数六・竈数六、男一〇・女一三。小役として糠藁役・綿役・布役・川役・山役が課された。産業として養蚕(産高金二両ほど)・麻(同二両ほど)・瀑布織(同一〇両ほど)・曾木(同六六両ほど)があった。
檜枝岐村
ひのえまたむら
面積:三九〇・五〇平方キロ
南会津郡の南西端に位置し、北は只見町、東は伊南村・舘岩村、南は栃木県塩谷郡栗山村・群馬県利根郡片品村、西は新潟県北魚沼郡湯之谷村。東北地方の最高峰燧ヶ岳(二三四六メートル)をはじめ、駒ヶ岳(二一三二・四メートル)・帝釈山(二〇五九・五メートル)など標高二〇〇〇メートル級の高山が村域の大部分を占め、国有林が広がる。片品村との境には国指定特別天然記念物の尾瀬沼・尾瀬ヶ原があり、燧ヶ岳などとともに一帯は日光国立公園に含まれる。北西部は越後三山只見国定公園に属する。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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