和歌をもとにしたかるた。平安時代から貝を使う貝覆(かいおおい)という遊びがあったが,のちにカード形式で行う天正かるたの影響をうけて,従来の貝殻から紙製に変わり,江戸時代初期に歌がるたが生まれたと考えられる。本来,歌をおぼえるための教育的な遊びで,《小倉百人一首》《伊勢物語》《古今集》《源氏物語》などの歌が用いられ,1組の札の枚数も歌の数に合わせてさまざまであった。札の形は通常の長方形から,将棋の駒形,櫛(くし)形,貝形,円形,色紙形などがあり,材質も紙製から,絹ばり,布製,板製,蒔絵などで,極彩色の豪華品も作られ,上流階級の婚礼調度にも加えられた。これら歌がるたの中で,《小倉百人一首》だけが普及して今日まで残り,広く愛好されている。なお,江戸時代に歌がるたのことを一部で歌貝,続松(ついまつ)などと呼んだこともあるが,これは,賭博(とばく)かるたと同一視されるのをきらったためで,定着せずに終わったようである。続松とは松明(たいまつ)のことで,《伊勢物語》の中の,女がよせた歌の上の句に,男が答えて,続松の炭で下の句を書き加えた故事によるものとされている。
→かるた →百人一首
執筆者:村井 省三
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かるた遊びの一種で、和歌をもとにしたもの。和歌100首を選び、小さい紙札に各1首を記したものを読み札とし、下(しも)の句だけを記したものを拾い札(取り札)として競技者の間にまき散らし、読み人が上(かみ)の句を読むにしたがって、競技者がそれに続く下の句の札をとり、その札の多少によって勝敗を決する。この遊びは、古く行われた貝合(かいあわせ)、貝覆(かいおおい)から生まれた歌貝の様式をとり、貝のかわりに将棋の駒(こま)の形をした木札や金銀箔(はく)を押した厚紙を用いるようになって、『源氏物語』『伊勢(いせ)物語』『古今集』などを記した。江戸中期から、もっぱら小倉(おぐら)百人一首を記し、形も西洋カルタ式の長方形となったものを歌がるたとよぶようになった。明治時代になって標準かるたが制定され、形式や遊び方なども整い、拾い札をまき散らしてとった数を競う「ちらし」、組に分かれて場札の上がりを争う「源平」ほか、個人技を競う名人戦なども行われている。
[佐藤農人]
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…歌はすべて《古今集》以下の勅撰集を典拠としている。本の形でも伝わるが,近世以後,〈歌がるた〉として愛好され,かるたの呼名としても定着した。1235年,宇都宮頼綱(定家の子為家の妻の父,法名蓮生)は山荘の障子に貼る色紙和歌の選定と執筆を定家に依頼し,定家は《百人秀歌》(後鳥羽院,順徳院の歌を欠くなどいくつかの相違はあるが《小倉百人一首》と骨子は同じ)を編集,のちそれを改訂して成立したものとされるが,異説も多い。…
…なお,1902年に施行された骨牌税が57年トランプ類税となり,トランプ,花札,かぶ札など一定範囲のものを国内で販売するときには税金が課せられる。
[教育系かるた]
平安時代から行われた貝覆は,江戸時代初期になって天正かるたの影響をうけて,従来の貝殻から紙製に変わり,〈歌がるた〉〈絵合せかるた〉が生まれたと考えられる。前者は和歌を教えるのを目的とし,歌の上の句と下の句を合わせるもので,多くの和歌集から作られたが,その代表的なものは《小倉百人一首》である。…
…手習いの手本としても,江戸時代以来よく使われている。この百人一首の大衆化は歌がるたの普及によっていっそう進んだ。歌がるたは,16世紀にポルトガル人がもたらしたというカルタの流行を見て,京都の公卿が貝覆(かいおおい)の貝を紙に替えて,南蛮カルタあるいはその日本産ともいうべき天正かるたと同じ形状のものを経師屋につくらせたことに始まるという。…
※「歌ガルタ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
小麦粉を練って作った生地を、幅3センチ程度に平たくのばし、切らずに長いままゆでた麺。形はきしめんに似る。中国陝西せんせい省の料理。多く、唐辛子などの香辛料が入ったたれと、熱した香味油をからめて食べる。...
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