着物の模様付けの一つ。また江戸褄模様の長着の略。今日では既婚女性の正装である黒地染抜き五つ紋付の留袖が、江戸褄模様に染められているので、同義語として用いられる。
桃山時代から江戸初期には、長着は総模様であったが、正徳(しょうとく)年間(1711~1716)ごろになると裾(すそ)模様の名が現れる。このころ発達した友禅染が絵羽模様の腰高模様を生み出したのである。その後、幕府の緊縮政策によるたび重なる奢侈(しゃし)禁令と江戸っ子の粋(いき)好みから、模様はだんだん低くなり、宝暦(ほうれき)年間(1751~1764)には八寸(裾から約30センチメートル)、五寸(約19センチメートル)、三寸(約11センチメートル)の裾模様となった。その後明和(めいわ)・安永(あんえい)期(1764~1781)になると、袖(そで)口、裾回しのみ模様を置いた裏模様と並んで、ふたたび表に模様が現れ、褄(つま)の部分に三角に模様を置く褄模様ができ、これを江戸褄といった。やや遅れて京都島原の遊廓(ゆうかく)あたりから流行したといわれる、衿(えり)まで模様のかかるものは、島原模様といった。
江戸褄模様は、文化・文政(1804~1830)から天保(てんぽう)(1830~1844)にかけて全盛となり、定紋付黒縮緬(ちりめん)が既婚女性の慶事の礼装として定着し、現在に至っている。
明治になると、江戸褄模様と裾模様の区別がなくなり、混用されるようになった。大正中期には大江戸褄といって、衿下70~75センチメートル、後ろ裾に模様がかかり、その模様の高さも30センチメートルほどのものが若い女性に好まれ、流行した。江戸褄模様は第二次世界大戦中を除き、戦後の1955年(昭和30)ごろからふたたび正式礼装として復活した。年齢により模様の位置に高低があるが、大江戸褄がほとんどで、模様の中心は上前の衽(おくみ)から前身頃(みごろ)に高く置かれるようになった。模様は松竹梅、四君子(しくんし)、鶴亀(つるかめ)、鳳凰(ほうおう)、蓬莱山(ほうらいさん)などの吉祥(きちじょう)模様がおもで、伝統的で格調の高い豪華なものである。なお振袖や訪問着と異なり、上部身頃と袖には模様がない。白衿黒紋付に対して色物の江戸褄は色留袖ともいい、未婚女性の正装である。これを既婚者が着ると略装とされたが、現在では身内以外の者の結婚式や披露宴などに着られる。
生地は一越縮緬(ひとこしちりめん)の四丈物を用い、裾回しは表地を裏に引き返して用いる無垢(むく)仕立てで、口綿入れにする。裾回しには表と関連のある模様を簡略にしたものをつける。
本来は下着には白羽二重(はぶたえ)の無垢を重ねるが、最近は比翼(ひよく)仕立てにすることが多い。夏は平絽(ひらろ)か絽縮緬の単(ひとえ)で、下着には白の平絽を用いる。
[岡野和子]
和服の両褄の先に左右対称につける柄模様。また江戸褄模様紋付の長着の略。江戸大奥の女性が着用したところから,この名がついたという。黒ちりめん定紋付の江戸褄が既婚女性の式服として民間に広まったのは文化・文政(1804-30)のころで,第2次大戦前まで黒五つ紋付江戸褄模様の長着は既婚女性,色江戸褄は丸帯とあわせて未婚女性の礼装であった。古式は,表着(うわぎ)と同じ模様を染めたものを中着として,白羽二重の下着とともに三枚襲(かさね)とした。夏には絽(ろ)ちりめん,平絽の江戸褄に絽の襲下着を用いた。鳳凰,鶴亀,松竹梅,牡丹などの有職文様や吉祥柄を友禅とししゅうで両褄にあらわした模様が,前身ごろを中心に大きく脇縫を越えた模様に変わったのは,裾を引かずお端折(はしより)にする着装方法による。これを大江戸褄,江戸褄後がかりと呼んだ。模様の変化にしたがって現在では留袖と名称が変わり,本来の江戸褄模様は,芸者の座敷着としてわずかに残る。
→小袖 →留袖
執筆者:山下 悦子
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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