洞村(読み)ほらむら

日本歴史地名大系 「洞村」の解説

洞村
ほらむら

[現在地名]清水市興津東町おきつあずまちよう

興津川を隔てて中宿なかじゆく町の北東、同川下流左岸に位置し、北はさつた村、北東は西倉沢にしくらさわ(現由比町)。薩山の南麓を占め、南は海に面し、東海道が通る。東海道は当地から薩峠を越えて西倉沢村に通じていたが(峠から当村へは一二町、西倉沢村へは一八町)、いわゆる安政地震で地盤が隆起したため、海岸部を通るようになった。なお文化三年(一八〇六)の分間延絵図では薩峠越道の南側、沿岸部に「古往還道之由」と注記があり、中世の東海道は海沿いを通って薩山の南麓を抜けていたようである。


洞村
ほらむら

[現在地名]岐阜市洞・深坂ふかさか

御望ごも山の南麓、東は交人ましと村、南は古市場ふるいちば村、西は御望村。宝暦四年(一七五四)の村絵図(松井家蔵)によると、村中央に集落があり、その南に深坂大明神が描かれ、北方の山々は土砂崩れの様相を呈している。地方文書には鵜飼洞うかいほら村ともみえる。慶長郷帳および元和二年(一六一六)の村高領知改帳に村名がみえ、高七四七石余。慶長六年(一六〇一)に加納藩領になったとみられる。正保郷帳では田四七八石余・畑二六一石余・紙桑木高六石余・野山年貢一石余で幕府領。寛文元年(一六六一)高四七一石余が旗本曾我領となり、元禄郷帳では幕府領と旗本曾我領の二給。


洞村
ほらむら

[現在地名]美山町大字豊郷とよさと

つるおか一九ヵ村の一。棚野たなの川の支流西にし川の最上流に位置する。西川と洞谷ほらたに川が合流する三角州にわずかに開けた村落で、四方を山に囲まれ西は洞峠を越えると何鹿いかるが古屋ふるや(現綾部市)に達する。川を下ると名島なしま村。古代は「和名抄」に記す弓削ゆげ郷に属する地。鎌倉時代末期には弓削庄の一部であったが、のち野々村ののむら庄に包含されたともいわれる。室町中期には一時管領細川氏領となったというが(大正一二年「京都府北桑田郡誌」)、確証はない。

慶長七年(一六〇二)幕府領、寛文四年(一六六四)より篠山藩領となる。


洞村
ぼらむら

[現在地名]いわき市渡辺町洞わたなべまちぼら

釜戸かまど川左岸にあり、西は初田はつた村、北は昼野ひるの村、南はいずみ村。菊多きくた郡に属した。近世の領主の変遷は磐城平藩領から寛永一一年(一六三四)三一石余のみが泉藩領となり、以後幕末まで変わらない。残余は磐城平藩領から寛文一〇年(一六七〇)以降湯長谷藩領になったと思われる。年未詳の泉御領内村々差出書(いわき市史)によれば「当村は湯長谷藩領地の洞村一カ村ニ付候処、寛文年中、従平泉江御分地ニ成候節、蔵人と申者、壱人訳在之、泉領ニ相成候由、因ここに石高人別は泉領ニ成候得共、諸普請・掛物・出銭ハ湯長谷藩領の洞村江差出、尤田畑入会在之候事」とあり、磐城平藩からの泉藩・湯長谷藩の分立の関係で、知行人の移動によって二領主となったことが推量できる。


洞村
ほらむら

[現在地名]宮川村洞

宮川支流の洞谷に沿い、上流におくほら、下って中村なかむら、さらに下流にの集落がある。その下流に中沢上なかぞれ村がある。洞谷上流は高原で、下流は深い谷になっている。元禄検地帳(宮川村文書)では小島こじま郷に属し、高八石余、田五反余・畑五町六反余。田は稗田で、ほかに焼畑四町五反余があり、名請人六人、屋敷は一人で二軒もつ者二人がおり八軒。「飛騨国中案内」では免二割四分六厘余、家数一〇(うち百姓九・門屋一)。安永三年(一七七四)の新田検地帳(宮川村文書)では高七石余。「斐太後風土記」では村域縦一里・横三〇間、家数一三・人数八〇余。


洞村
ほらむら

[現在地名]岡崎市洞町

矢作川の支流おと川沿いに立地。東大平ひがしおおひら村の北にあり、乙川河岸段丘が三河高原の麓に延び洞のような地形をなしている。東は古墳の多い西丸山にしまるやま村・東丸山村と高隆寺こうりゆうじ村に接し、西はかけ村より岡崎の城下町へ続く。「三河堤」などによれば、源頼政の孫大河内顕綱が治承三年(一一七九)父とともに当地に来住し、三河国守護足利義氏に出仕したとある。字大河内おおこうちの地名が残る。また「三河堤」「本多家記事」には、古城跡として本多氏直系の定通の曾孫助時が松平五代長親に仕え、以来助豊・忠豊・忠高・忠勝が居城し、元亀元年(一五七〇)家康の浜松移城に際して忠勝はこれに従い、代わって山下庄大夫・同源蔵が居城したという。


洞村
ほらむら

[現在地名]三田市洞

四辻よつつじ村の南、武庫むこ川の右岸、同川支流の相野あいの川が南部を南東流し、その流域に広がる平坦地に立地する。「本庄村誌」によれば、承応二年(一六五三)に四辻村の宇左衛門・九郎右衛門・又右衛門の三人が二本松にほんまつに新田を開き、移住して洞新田(二本松新田)と称した。


洞村
ほらむら

[現在地名]松本市洞

天正検地の際は稲倉郷九七四石八斗九合の中にあったが、寛永三年(一六二六)村分れした。同一九年の信州松本御領分村々高附帳に初めて一三一石六斗六升六合と高付けされる。「信府統記」に「御朱印高百六拾五石三斗六升七合」とあり、享保九年(一七二四)当時の石高は一九七石六斗四升七合である。寛文年間(一六六一―七三)の水田は七町五段一五歩、畑地は六町九段八畝一二歩である。慶安検地の時、本百姓一七、門百姓三。

「信府統記」に「洞村山の古城地 早落山ノ城ト云ヒ伝フ、洞村ヨリ午ノ方二町四十間本城戌亥ヨリ辰巳ヘ五間、午未ヨリ子丑ヘ二十二間、赤沢氏領セシ頃、地取合多キ時節ナレハ、所々ニ要害ノ地ヲ見立テ、取出塁等ヲ構ヘ置ケリ、早落山ノ号、城ニハ忌ヘキ名ナリ、此城日アラスシテ落城セシコトアリケル故、山ノ号トシテ称ヘ来レルニヤ」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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