デジタル大辞泉
「岡田米山人」の意味・読み・例文・類語
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おかだ‐べいさんじん【岡田米山人】
- 江戸中期の南画家。半江の父。名は国。津藩主藤堂家に儒学をもって仕えた。延享元~文政三年(一七四四‐一八二〇)
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岡田米山人
おかだべいさんじん
(1744―1820)
江戸後期の南画家。名は国、字(あざな)は士彦(しげん)、通称は彦兵衛、米山人と号する。その前半生については不明。一説に播磨(はりま)国(兵庫県)剣坂村の庄屋(しょうや)安積(あさか)氏で、米を搗(つ)きながら学問し、大坂に出たともいわれる。1775年(安永4)には大坂で舂米屋(しょうまいや)をしており、画家としての名も世に知られていた。93年(寛政5)ごろにはすでに藤堂(とうどう)藩に仕え、大坂蔵屋敷留守居の下役となっている。当時の大坂の代表的文化人木村蒹葭堂(けんかどう)と親しく、また浦上玉堂(うらかみぎょくどう)、若年の田能村竹田(たのむらちくでん)とも相識であった。山水、花鳥ともに独特のユーモアと一種奇矯の感あるたくましい画風は、近年評価が高まっている。『松齢鶴算(しょうれいかくさん)図』『松下高士図』、大作では安積家の襖画(ふすまえ)『山水図』などが代表的である。
[星野 鈴]
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岡田米山人 (おかだべいさんじん)
生没年:1744-1820(延享1-文政3)
江戸後期の文人画家。名は国,字は士彦。大坂で生まれ,家は代々米の商いを業としていた。米山人の号はそれに由来する。米をつきながら書を読んだと伝えられるほど学問を好み,のち伊勢の津藩の藤堂侯に仕える。絵は中国,元の四大家,とくに黄公望を学んだというが,後輩の田能村竹田の言葉を借りれば,〈書画とも非常に巧みというわけではないが,突然心の中から天然の趣致がわき出るかのごとき書画を作った〉という。浦上玉堂とはとくに親交があったらしい。
執筆者:佐々木 丞平
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岡田米山人
おかだべいさんじん
[生]延享1(1744)
[没]文政3(1820).8.9. 大坂
江戸時代中・後期の南画家。岡田半江の父。名は国,字は士彦,通称彦兵衛,米山人。米翁と号した。伝記は不明な点が多い。一説には,初め播磨神東郡剣坂村の庄屋安積喜平次宅に寄食していたといわれ,米をつきながら学問に励んだという逸話が残る。のち大坂へ出て米屋を営む。その後伊勢津藩藤堂侯に儒学者として仕える。絵は独学であったらしく,しかも遺品のほとんどは 50歳以降のもの。浦上玉堂と親交があり,田能村竹田に影響を与えた。主要作品『松下高士図』 (1800) 。
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岡田米山人 おかだ-べいさんじん
1744-1820 江戸時代中期-後期の画家。
延享元年生まれ。大坂で米穀商をいとなみ,米をつきながら勉学にはげんだので米山人と号した。伊勢(いせ)津藩大坂蔵屋敷につかえ,画家の浦上玉堂らとまじわり,山水花鳥の文人画を得意とした。文政3年8月9日死去。77歳。大坂出身。名は国。字(あざな)は士彦。通称は彦兵衛。別号に米翁。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
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