淡海三船(読み)オウミノミフネ

デジタル大辞泉 「淡海三船」の意味・読み・例文・類語

おうみ‐の‐みふね〔あふみ‐〕【淡海三船】

[722~785]奈良時代漢学者大学頭だいがくのかみ文章博士もんじょうはかせ刑部大輔ぎょうぶのたいふ歴任鑑真がんじんの来朝を記した「唐大和上東征伝とうだいわじょうとうせいでん」の著者とされる。

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精選版 日本国語大辞典 「淡海三船」の意味・読み・例文・類語

おうみ‐の‐みふね【淡海三船】

  1. 奈良前期の漢詩人、漢学者。弘文天皇曾孫大学頭、文章(もんじょう)博士、刑部卿。著「唐大和上東征伝」。「懐風藻」の撰者ともいわれる。養老六~延暦四年(七二二‐七八五

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「淡海三船」の意味・わかりやすい解説

淡海三船
おうみのみふね

[生]養老6(722)
[没]延暦4(785).7.17. 京都
奈良時代の学者,文人大友皇子の曾孫で,祖父は葛野王,父は池辺王。天平勝宝3 (751) 年以前には三船王と称し,同年1月に姓淡海真人を賜わった。同8年,朝廷を誹謗したかどにより禁錮刑天平宝字2 (758) 年尾張介,同5年三河守となり,同6年に美作守。神護景雲1 (767) 年に東山道巡察使正五位上行兵部大輔兼侍従勲三等,次いで大宰大弐,宝亀3 (772) 年大学頭,文章博士となり,その後,大学頭をつとめることが多かった。延暦3 (784) 年刑部卿,翌4年刑部卿従四位下兼因幡守として死去。彼は藤原仲麻呂 (恵美押勝) のもとでは不遇で,また巡察使の任にあった当時も,過酷,独断的に事を処理したとして評判は芳しくなかった。しかし,文人,学者としては,当時第一級の見識をもって知られ,光仁天皇のときには石川名足とともに国史編纂に努力,僧籍にあった経験から仏典にも精通,宝亀1 (770) 年には『唐大和上 (鑑真) 東征伝』 (1巻) を著述,同 10年には『釈摩訶衍論』について研究し,それを偽作だとしているほどである。また天平宝字6 (762) ~8年頃に,神武,綏靖,安寧などの歴代天皇の漢風諡号を撰進したことは彼の大きな業績である。漢詩集『懐風藻』の編者とする説もある。

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改訂新版 世界大百科事典 「淡海三船」の意味・わかりやすい解説

淡海三船 (おうみのみふね)
生没年:722-785(養老6-延暦4)

奈良時代の文官。淡三船とも記し,真人元開ともいう。大友皇子(弘文天皇)の曾孫,父は従五位上池辺王。若くして出家し元開と称した。751年(天平勝宝3)淡海真人の姓を賜り還俗,遣唐学生の一員になったが疾を得て渡唐しなかった。その後式部少丞,内竪などを歴任,756年,大伴古慈斐と共に朝廷を誹謗(ひぼう)したかどで禁固されたが,ゆるされて山陰道巡察使,文部少輔などを経て,763年ころ歴代天皇の漢風諡号(しごう)を撰定し,764年恵美押勝の乱のときには造池使として近江にあり功をあげて正五位上に進む。以後歴官して772年大学頭,文章博士となり,石上宅嗣(いそのかみのやかつぐ)と共に〈文人之首〉と称された。その述作に《唐大和上東征伝(とうだいわじようとうせいでん)》などがあり,《経国集》に詩5首を残す。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「淡海三船」の意味・わかりやすい解説

淡海三船
おうみのみふね
(722―785)

奈良時代の文人、官人。大友皇子(弘文(こうぶん)天皇)4世の孫で三船王とよばれたが、少年時に出家して元開(げんかい)と称し、751年(天平勝宝3)還俗(げんぞく)賜姓して淡海真人(まひと)三船となる。754年、来日した唐僧鑑真(がんじん)に親炙(しんしゃ)し、のちにその伝『唐大和上東征伝(とうだいわじょうとうせいでん)』を撰述(せんじゅつ)する。756年、藤原仲麻呂(なかまろ)(恵美押勝(えみのおしかつ))の讒(ざん)にあい、朝廷誹謗(ひぼう)の罪で捕らえられたが、まもなく許され、文武少輔(しょうふ)、侍従、東山道巡察使などの官を歴任し、大学頭(だいがくのかみ)、文章博士(もんじょうはかせ)となる。この間に「大安寺碑文」を撰述し、歴朝漢風諡号(かんぷうしごう)を撰進し、石上宅嗣(いそのかみのやかつぐ)とともに奈良朝末期の「文人の首(おびと)」と称された。極官は刑部卿(ぎょうぶきょう)・大学頭で因幡守(いなばのかみ)を兼ね、従(じゅ)四位下。なお、三船を奈良時代の漢詩集『懐風藻(かいふうそう)』の撰者に擬する説もあるが、未詳。

[藏中 進]

『藏中進著『唐大和上東征伝の研究』(1976・桜楓社)』

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百科事典マイペディア 「淡海三船」の意味・わかりやすい解説

淡海三船【おうみのみふね】

奈良時代の漢学者。大友皇子の曾孫。仏門にはいったが勅により還俗(げんぞく),淡海真人(まひと)の姓を与えられた。歴代天皇の諡号(しごう)撰進や詩集《懐風藻》の撰者に擬せられ,唐僧鑑真の事績を記した《唐大和上(とうだいわじょう)東征伝》を著した。漢詩文は《経国(けいこく)集》に入集。
→関連項目鑑真和尚東征伝

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「淡海三船」の解説

淡海三船
おうみのみふね

722~785.7.17

名を御船とも。奈良後期の文人。天智天皇の皇子大友皇子の曾孫。父は葛野(かどの)王の子池辺王。751年(天平勝宝3)淡海真人(まひと)を賜姓。卒伝に「性識聡敏にして群書を渉覧しもっとも筆札を好む」とみえ,大学頭・文章博士(もんじょうはかせ)として石上宅嗣(いそのかみのやかつぐ)と並ぶ文人の首と称された。しかし756年(天平勝宝8)朝廷を誹謗したとして大伴古慈斐(こしび)とともに禁固された。恵美押勝(えみのおしかつ)の乱で勢多橋を焼いてその一党を防ぎ,その功によって東山道巡察使に任じられたが,苛政のため767年(神護景雲元)解任。若い頃,元開という僧名を得たこともあり,外典・漢詩にもすぐれ,「続日本紀」「唐大和上東征伝」を撰した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「淡海三船」の解説

淡海三船 おうみの-みふね

722-785 奈良時代の官吏,漢学者。
養老6年生まれ。大友皇子の曾孫(そうそん)。わかくして出家したが,天平勝宝(てんぴょうしょうほう)3年(751)勅命で還俗(げんぞく)し,淡海真人の氏姓をあたえられる。大学頭,文章博士などを歴任。歴代天皇の漢風諡号(しごう)や「懐風藻」の撰者ともいわれ,「経国集」に詩5首がのる。延暦(えんりゃく)4年7月17日死去。64歳。

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旺文社日本史事典 三訂版 「淡海三船」の解説

淡海三船
おうみのみふね

722〜785
奈良時代の文人(学者)
大友皇子の曽孫。文章博士・大学頭などを歴任。石上宅嗣 (いそのかみのやかつぐ) とともに当代第一の文人と称された。『懐風藻』の撰者という説もあるが疑わしい。歴代天皇の漢風諡号を撰し,鑑真の伝記『唐大和上東征伝 (とうのだいわじようとうせいでん) 』を著した。『経国集』に漢詩をおさめる。

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世界大百科事典(旧版)内の淡海三船の言及

【諡】より

…漢風諡は,大宝の《公式令》に定められたもので,文武天皇,光仁天皇等の称は,その例である。また神武天皇以下の諸天皇に対する諡は,淡海(おうみ)三船が勅命によって撰んだものと伝えられる。聖武天皇という名は,勝宝感神聖武皇帝という諡の略称である。…

【懐風藻】より

…書名は〈先哲の遺風を懐(おも)う詩集〉の意をもつ。撰者はその序文に名を記さず,淡海三船(おうみのみふね)など数説にのぼり,最近白壁王(後の光仁天皇)説もあるが,未詳。冒頭に,梁の昭明太子編集の《文選(もんぜん)》の序などを参考にした序文を置き,日本の漢詩の歴史的展開を巧みに記し,さらに編集事情を述べる。…

【唐大和上東征伝】より

淡海三船(おうみのみふね)(元開)の著。1巻。…

※「淡海三船」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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