デジタル大辞泉
「清浄華院」の意味・読み・例文・類語
しょうじょうけ‐いん〔シヤウジヤウケヰン〕【清浄華院】
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しょうじょうけ‐いんシャウジャウヰン【清浄華院】
- 京都市上京区北之辺町にある浄土宗大本山の一つ。貞観年間(八五九‐八七七)清和天皇の勅願により天台四宗兼学の禁裏内道場として創建。開山は円仁。のち法然が中興、浄土宗に改めた。浄華(花)院。
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例
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清浄華院
しようじようけいん
[現在地名]上京区北之辺町
山門は寺町通に西面する。浄土宗、本尊は阿弥陀如来。浄華院ともいい、かつては浄土宗四ヵ本山の一であった。
〈京都・山城寺院神社大事典〉
〔草創と法然の中興〕
「和漢三才図会」に「往昔禁裏仏殿、故無
寺号山号
」とあり、寺号、山号はない。寺伝によれば、貞観年中(八五九―八七七)清和天皇の勅により禁裏内道場として創建され、円仁が初代住持となり、南都北嶺の僧を召して天下太平を祈願せしめた。天暦五年(九五一)に全焼し、翌年村上天皇の勅によって再建されたが、貞元元年(九七六)震災にあい、円融天皇の勅により復旧された。後白河法皇が法然に帰依し清浄華院を与えたことから、天台四宗兼学から浄土宗へと転じた。この寺伝により法然を当寺の中興とする。
〔天皇家の帰依〕
弘安一〇年(一二八七)浄花房証賢(向阿)が二条万里小路(現京都市中京区)に移し(「後愚昧記」・真如堂縁起)、専修念仏の道場としたが、のちに土御門烏丸(現上京区)の西に移転。応仁の乱以後の景観を描くとされる中昔京師地図にも、この付近に「浄花院」とみえ、現在も元浄花院町の町名を伝える。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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清浄華院 (しょうじょうけいん)
京都市上京区にある浄土宗の大本山。浄華院(じようけいん)と略称。寺号,山号はない。清和天皇の勅願で円仁(えんにん)が開いた禁裏内道場に始まり,法然(ほうねん)が中興したと伝えるが,14世紀初頭の浄花房証賢(向阿(こうあ))を事実上の開山と考えるべきである。浄土宗一条派の拠点として栄え,万里小路(までのこうじ)家など,公家の帰依を得て,皇室との関係を深めた。応仁の乱の後は,寺運ふるわず,とくに17世紀初頭に金戒光明寺(こんかいこうみようじ)が多数の末寺を伴って独立したため,やや衰えた。しかし,禁裏内道場という由緒を誇るだけに,境内には江戸時代の皇族の陵墓が多い。寺宝に《泣不動縁起(なきふどうえんぎ)》(室町時代,重要文化財)などがある。
執筆者:中井 真孝
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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清浄華院
しょうじょうけいん
京都市上京(かみぎょう)区寺町通広小路上ルにある寺。浄土宗四大本山の一つ。浄華院と略称する。860年(貞観2)、清和(せいわ)天皇の勅願により慈覚大師円仁(えんにん)を開山として、鎮護国家を祈願するために御所の内に創建された。初め天台、真言(しんごん)、仏心、戒律の四宗兼学であったが、後白河(ごしらかわ)法皇が十二光院を増建して、その住持に法然(ほうねん)(源空)を補してから浄土宗となった。天正(てんしょう)年間(1573~92)に豊臣(とよとみ)秀吉が多くの寺院を洛外(らくがい)に移すに伴って現在地に移建。その後も数次の火災で焼失したが、そのたびに皇室の加護を受けて再建された。皇室の恩顧厚かったため、清和、村上(むらかみ)両天皇の尊像や、その他多くの皇族の霊牌(れいはい)を祀(まつ)る。寺宝に紙本着色泣不動縁起(なきふどうえんぎ)1巻などがある。
[森 章司]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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