清凉寺(読み)せいりょうじ

精選版 日本国語大辞典 「清凉寺」の意味・読み・例文・類語

せいりょう‐じセイリャウ‥【清凉寺】

  1. 京都市右京区嵯峨釈迦堂藤ノ木町にある浄土宗の寺。山号は五台山。嵯峨天皇の皇子源融(みなもとのとおる)が山荘棲霞観を設け、のち棲霞寺としたのに始まる。その後、奝然(ちょうねん)の弟子の盛算が棲霞寺の釈迦堂を寺として清凉寺と号した。以後、棲霞寺は衰え、清凉寺が興隆。国宝の本尊の釈迦如来立像、絹本着色の十六羅漢像のほか、清凉寺縁起融通念仏縁起の絵巻などを所蔵する。嵯峨釈迦堂。しょうりょうじ。

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日本歴史地名大系 「清凉寺」の解説

清凉寺
しようりようじ

[現在地名]右京区嵯峨釈迦堂藤ノ木町

大覚寺の西にあり、五台山と号し、浄土宗。「せいりょうじ」とも訓じ、通称を嵯峨さが釈迦しやか堂という。本尊釈迦如来。

〈京都・山城寺院神社大事典〉

〔草創〕

寺地は左大臣源融の山荘棲霞観せいかかんのあった地で、「三代実録」元慶四年(八八〇)八月二三日条に「太上天皇遷水尾山寺、御嵯峨棲霞観、以水尾有造仏堂也、詔授左大臣源朝臣融家令正六位上伴宿禰枝雄従五位下、棲霞観者、左大臣山庄也、故有此賞也」とある。融の没後、寺に改められて棲霞寺と号し、天慶八年(九四五)一二月二七日、源重明(式部卿宮重明親王)が亡室のために新堂を建立、金色等身釈迦如来一体を安置している(李部王記)。寛和三年(九八七)二月一六日に「摺本一切経論並霊山第三伝釈迦等身立像十六羅漢絵像」(扶桑略記)をもって唐から帰った奈良東大寺然は、愛宕あたご山を中国の五台山になぞらえて伽藍を建立、大清凉だいしようりよう寺と号することを企てたが、長和五年(一〇一六)に没したため実現しなかった。然の遺志を継いだ高弟の盛算は寺院建立はあきらめ、棲霞寺内の釈迦堂に栴檀の釈迦如来像を奉安し、勅許を得て五台山清凉寺と号し、華厳宗の寺院とした(「清凉寺縁起」続群書類従)。棲霞寺釈迦堂に仮寓するというかたちで創建された清凉寺は、浄土教信仰の発達とともに栴檀瑞像の名でよばれる釈迦如来に対する信者を得て、天台・真言・念仏宗を兼ねた寺として発達、室町中期には融通念仏の大道場となり、棲霞寺に代わって清凉寺の名が高まった。


清凉寺
せいりようじ

[現在地名]彦根市古沢町

佐和さわ山の西麓に位置し、その北に龍潭りようたん寺・井伊いい神社・大洞おおほら弁財天堂と旧彦根藩主井伊家にゆかりの深い寺社が並ぶ。祥寿山と号し、曹洞宗。本尊釈迦如来。「木間攫」および同書に写が載る清凉寺記によると、井伊直政が佐和山入城後、石田三成一族の菩提を弔うため、同城大手にあった清凉院と当地にあった月峯庵を合せ、清凉寺としたという。当初井伊家旧封地上野国上後閑かみごかん(現群馬県安中市)の曹洞宗長源ちようげん寺末であったが、寛永八年(一六三一)直孝が同国箕輪みのわ(現同県箕郷町)から愚明正察を招請して住持に据え、明暦二年(一六五六)正察退隠のとき本末関係を改め、同国双林そうりん(現同県子持村)末となった。


清凉寺
せいりようじ

[現在地名]清洲町清洲 神明町

洪福山と号し、曹洞宗。本尊地蔵菩薩。創始年代は不詳であるが、もと海東かいとう土田つちだ村にあって正法しようぼう庵といったものを寛永年間(一六二四―四四)に現在地へ移し、万治年中(一六五八―六一)に清凉寺と改めたという。中興開基は班総宗虎、開山は嫩長(延宝七年没)という(西春日井郡誌)が、嫩長は正眼しようげん(現小牧市)二〇世天江嫩良(延宝七年没)ではなかろうか。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「清凉寺」の意味・わかりやすい解説

清凉寺
せいりょうじ

京都市右京区嵯峨釈迦堂(さがしゃかどう)藤ノ木町にある浄土宗の寺。五台山と号する。通称を嵯峨の釈迦堂という。本尊は釈迦如来(にょらい)。もとは棲霞(せいか)寺境内の一隅に建てられた釈迦堂であった。棲霞寺は嵯峨天皇の第12皇子、左大臣源融(とおる)(822―895)の山荘、棲霞館に建てられた阿弥陀(あみだ)堂を創始とする。融は熱心な阿弥陀信仰者で、阿弥陀像の造立を発願したが果たしえずに没したため、遺族が志を継ぎ、阿弥陀三尊像を完成し、融の一周忌、896年(寛平8)に阿弥陀堂を建立して安置し、法会を行い、棲霞寺が誕生した。一方、奝然(ちょうねん)は983年(永観1)五台山巡礼のため中国に渡り、986年(寛和2)優填王(うてんおう)所造栴檀釈迦像(せんだんしゃかぞう)の模刻、十六羅漢(らかん)像、宋(そう)版大蔵経を持って帰朝した。翌年将来した釈迦像を本尊として、愛宕(あたご)山に五台山清凉寺の建立を出願、990年(正暦1)に戒壇の併設を出願した。しかし叡山(えいざん)の反対により許可にならず、東大寺別当に任じられて京都を離れ、1016年(長和5)志を果たさず没した。弟子盛算は愛宕山麓(さんろく)の棲霞寺内に清凉寺を建立し、師の遺志を実現した。現在の釈迦堂は1703年(元禄16)完成のもの。もと真言(しんごん)宗大覚寺派に属していたが、室町時代には融通(ゆうずう)念仏の大道場となり、このころから浄土宗に固まったとみられる。現在、棲霞寺は境内の阿弥陀堂に名を残すのみである。

 奝然将来の木造釈迦如来立像(国宝)は「生身の釈迦」といわれ、全国に数十躯(く)の模刻があり、その信仰の大きさを物語っている。そのほか絹本着色十六羅漢像(国宝)、木造十大弟子像、紙本着色融通念仏縁起、紙本着色釈迦堂縁起など多くの国重要文化財がある。大念仏狂言(4月中旬の土・日曜日)、お松明(たいまつ)式(3月15日)の行事は名高い。

[清水 乞]

『佐々木剛三著『清凉寺』(1965・中央公論美術出版)』

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改訂新版 世界大百科事典 「清凉寺」の意味・わかりやすい解説

清凉寺 (せいりょうじ)

京都市右京区にある浄土宗の寺。山号は五台山,通称は嵯峨釈迦堂。〈しょうりょうじ〉とも読む。もとは嵯峨天皇の皇子,源融(みなもとのとおる)の山荘〈棲霞観(せいかかん)〉のあった所。融の死後,寺に改められて棲霞寺と号した。東大寺の僧奝然ちようねん)が入宋し,985年(雍煕2)台州で優塡王(うでんのう)造の栴檀(せんだん)釈迦如来立像を模刻させて持ち帰り,1016年(長和5)奝然の死後,弟子盛算が棲霞寺内の釈迦堂におさめ,清凉寺と号した。棲霞寺に仮寓した清凉寺は,この釈迦像が〈生身の釈迦〉の瑞像であるとの信仰をあつめ,しだいに大きくなり,棲霞寺よりも名が高まった。棲霞寺にとって,いわば庇を貸して母屋を取られた形で,今は清凉寺内の阿弥陀堂にその跡を残すにすぎない。中世には釈迦堂への参詣・参籠者がふえ,また浄土教の普及とあいまって,嵯峨一帯に隠遁する聖(ひじり)たちの宗教活動の拠点となり,清凉寺は従前の超宗派性をうしない,浄土系念仏宗の色が濃くなる。それは,信仰の趨勢にもよるが,いくたびかの災害にあった諸堂舎を,念仏者の勧進で再建されたことにある。〈本願〉と称した彼らは寺院経済の実をにぎり,真言系の五大堂など五つの子院としばしば対立した。ことに近世の釈迦像の出開帳(でがいちよう)における賽銭の分配をめぐる両者の争いは,世人の嘲笑をあびた。明治維新の際,真言系の子院が大覚寺に合併されて以後,浄土宗単独の寺となる。寺宝には,釈迦像とその胎内納入品や《十六羅漢像》(国宝),《融通念仏縁起》(重要文化財)などがある。
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百科事典マイペディア 「清凉寺」の意味・わかりやすい解説

清凉寺【せいりょうじ】

京都市右京区嵯峨釈迦堂藤ノ木町にある浄土宗の寺。〈しょうりょうじ〉とも。通称嵯峨釈迦堂。平安初期,左大臣源融(とおる)の山荘棲霞(せいか)観を寺とし棲霞寺と称した。945年境内に釈迦堂を建立,987年【ちょう】然(ちょうねん)が宋から将来した栴檀(せんだん)釈迦像(国宝)を安置,【ちょう】然の弟子盛算がここに住し,のち清凉寺と称した。やがて清凉寺が栄えたので棲霞寺はこれと合併した。現存の建物は元禄期のもの。《十六羅漢画像》《融通念仏縁起絵巻》《釈迦堂縁起》等を蔵する。
→関連項目釈迦堂棲霞寺清凉寺式釈迦宝物集

清凉寺【しょうりょうじ】

清凉寺(せいりょうじ)

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世界大百科事典(旧版)内の清凉寺の言及

【御身拭】より

…仏像や祖師像に付着した塵埃をぬぐい清めること,またその法要をいう。京都市嵯峨の清凉寺(釈迦堂)のそれが歴史的にも名高い。毎年4月19日(もと3月)に,香水(こうずい)に浸した白木綿で本尊の釈迦像をぬぐい,これを信者にあたえる。…

※「清凉寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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