寺地は左大臣源融の山荘
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
京都市右京区嵯峨釈迦堂(さがしゃかどう)藤ノ木町にある浄土宗の寺。五台山と号する。通称を嵯峨の釈迦堂という。本尊は釈迦如来(にょらい)。もとは棲霞(せいか)寺境内の一隅に建てられた釈迦堂であった。棲霞寺は嵯峨天皇の第12皇子、左大臣源融(とおる)(822―895)の山荘、棲霞館に建てられた阿弥陀(あみだ)堂を創始とする。融は熱心な阿弥陀信仰者で、阿弥陀像の造立を発願したが果たしえずに没したため、遺族が志を継ぎ、阿弥陀三尊像を完成し、融の一周忌、896年(寛平8)に阿弥陀堂を建立して安置し、法会を行い、棲霞寺が誕生した。一方、奝然(ちょうねん)は983年(永観1)五台山巡礼のため中国に渡り、986年(寛和2)優填王(うてんおう)所造栴檀釈迦像(せんだんしゃかぞう)の模刻、十六羅漢(らかん)像、宋(そう)版大蔵経を持って帰朝した。翌年将来した釈迦像を本尊として、愛宕(あたご)山に五台山清凉寺の建立を出願、990年(正暦1)に戒壇の併設を出願した。しかし叡山(えいざん)の反対により許可にならず、東大寺別当に任じられて京都を離れ、1016年(長和5)志を果たさず没した。弟子盛算は愛宕山麓(さんろく)の棲霞寺内に清凉寺を建立し、師の遺志を実現した。現在の釈迦堂は1703年(元禄16)完成のもの。もと真言(しんごん)宗大覚寺派に属していたが、室町時代には融通(ゆうずう)念仏の大道場となり、このころから浄土宗に固まったとみられる。現在、棲霞寺は境内の阿弥陀堂に名を残すのみである。
奝然将来の木造釈迦如来立像(国宝)は「生身の釈迦」といわれ、全国に数十躯(く)の模刻があり、その信仰の大きさを物語っている。そのほか絹本着色十六羅漢像(国宝)、木造十大弟子像、紙本着色融通念仏縁起、紙本着色釈迦堂縁起など多くの国重要文化財がある。大念仏狂言(4月中旬の土・日曜日)、お松明(たいまつ)式(3月15日)の行事は名高い。
[清水 乞]
『佐々木剛三著『清凉寺』(1965・中央公論美術出版)』
京都市右京区にある浄土宗の寺。山号は五台山,通称は嵯峨釈迦堂。〈しょうりょうじ〉とも読む。もとは嵯峨天皇の皇子,源融(みなもとのとおる)の山荘〈棲霞観(せいかかん)〉のあった所。融の死後,寺に改められて棲霞寺と号した。東大寺の僧奝然(ちようねん)が入宋し,985年(雍煕2)台州で優塡王(うでんのう)造の栴檀(せんだん)釈迦如来立像を模刻させて持ち帰り,1016年(長和5)奝然の死後,弟子盛算が棲霞寺内の釈迦堂におさめ,清凉寺と号した。棲霞寺に仮寓した清凉寺は,この釈迦像が〈生身の釈迦〉の瑞像であるとの信仰をあつめ,しだいに大きくなり,棲霞寺よりも名が高まった。棲霞寺にとって,いわば庇を貸して母屋を取られた形で,今は清凉寺内の阿弥陀堂にその跡を残すにすぎない。中世には釈迦堂への参詣・参籠者がふえ,また浄土教の普及とあいまって,嵯峨一帯に隠遁する聖(ひじり)たちの宗教活動の拠点となり,清凉寺は従前の超宗派性をうしない,浄土系念仏宗の色が濃くなる。それは,信仰の趨勢にもよるが,いくたびかの災害にあった諸堂舎を,念仏者の勧進で再建されたことにある。〈本願〉と称した彼らは寺院経済の実をにぎり,真言系の五大堂など五つの子院としばしば対立した。ことに近世の釈迦像の出開帳(でがいちよう)における賽銭の分配をめぐる両者の争いは,世人の嘲笑をあびた。明治維新の際,真言系の子院が大覚寺に合併されて以後,浄土宗単独の寺となる。寺宝には,釈迦像とその胎内納入品や《十六羅漢像》(国宝),《融通念仏縁起》(重要文化財)などがある。
執筆者:中井 真孝
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…仏像や祖師像に付着した塵埃をぬぐい清めること,またその法要をいう。京都市嵯峨の清凉寺(釈迦堂)のそれが歴史的にも名高い。毎年4月19日(もと3月)に,香水(こうずい)に浸した白木綿で本尊の釈迦像をぬぐい,これを信者にあたえる。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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