サツマイモを焼いたもの。サツマイモの食べ方として最も簡便,かつ美味な方法なので,日本でもサツマイモの渡来直後から行われていたはずである。サツマイモは,16世紀の末に中国から沖縄に伝えられ,17世紀末までには九州,四国に普及しており,18世紀になると京都付近でも栽培されていた。関東では1735年(享保20)に青木昆陽が実験的な栽培を始め,以後半世紀ほどの間に関東一円に普及した。まだ砂糖が高価な時代であったから,サツマイモは都市民にとっては救荒食品ではなく,菓子がわりの甘味品としておおいに愛好され,その需要にこたえて焼芋屋が続出した。幕末期の江戸では,《嬉遊笑覧》が〈焼芋売る処,何れの町にても二,三ヶ所あらぬ処はなし〉と記しており,京坂でも事情は同じであった。
焼芋屋は季節によって蒸芋を売ったり,サツマイモの端境期には〈きぬかつぎ〉と呼ぶサトイモのゆでたものなども売った。いつごろからあったかは不明だが,1719年朝鮮の使節団の一員として来日した申維翰がその著《海游録》に,京都の日岡(ひのおか)で路傍の露店で焼芋を売っていたことを書いている。おそらくこれが記録上最古の焼芋屋であろう。その後,焼芋屋の記事はとだえ,寛政(1789-1801)ころ江戸に出現する。初めは一年中蒸芋を売り,その蒸芋は〈大蒸し(おおふかし)〉と呼ばれたという。やがて神田の弁慶橋近く(現,千代田区岩本町2丁目あたり)に〈原の焼芋〉と通称された店ができて評判になり,以後江戸は焼芋全盛時代を迎えた。そして前記《嬉遊笑覧》の記事のような現象を呈したのだが,それほど焼芋屋が多くなった原因の一つには,ひと口に八百八町といわれた町々の木戸を守った番太郎の多くが,副業として焼芋屋や駄菓子屋を営んだためであった。上方では天保(1830-44)までは蒸芋がほとんどだったらしい。店の数も少なく,大坂では堀江和光寺門前の権左の蒸芋が有名で,和光寺の参詣客がみやげに買って帰ったと《浪華百事談》に見える。夜間は荷を担いで〈ほっこり,ほっこり〉と呼売して歩いた蒸芋屋があったともいう。こうした店は軒先の行灯などに〈八里半〉〈十三里〉などと書いた。前者はクリに近いの意,後者はクリ(九里)より(四里)うまいというしゃれである。明治以後,焼芋屋は夏の間だけ氷屋になる店が多くなったが,ほかの季節は道路に面して築いたかまどに大きな鉄の平がまをのせて焼いていた。つぼ焼芋というのが目だつようになったのは昭和10年代のことになる。それは,ほんの1坪あるかなしの床見世(とこみせ)が多く,店の中に大きな土のつぼを置き,その中で芋を蒸焼きにしていた。続いて大学芋というのが出現した。これは油で揚げて,みつをからめたもので,中国料理に出てくる〈抜糸紅薯〉に似たものであった。明治ころから下宿暮しの学生などが焼芋を愛用したことなどから着想した名称で,その奇抜なネーミングとこってりした味で,人気を集めた。そして,第2次大戦後の今の石焼芋屋の登場となるが,平和な庶民生活の景物として四季おりおりの季節感と情緒を漂わせた焼芋屋は,第2次大戦前夜にほとんど姿を消した。
→サツマイモ
執筆者:鈴木 晋一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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