国の特別史跡で、戦国武将の加藤清正が築き1607(慶長12)年に完成した。後に熊本藩主となった細川氏が明治維新まで居城とした。1877(明治10)年の西南戦争で、城内に司令部の「鎮台」を置いた明治新政府軍と、西郷隆盛率いる旧薩摩藩士らが、激戦を繰り広げた。天守閣はその直前、火災で焼失。熊本市民らの寄付を元に1960年、鉄筋コンクリート造りで再建された。市によれば、被災前に毎年170万人前後が訪れていた。
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室町期~江戸期の城。熊本市中央区本丸にあり、別称を銀杏(ぎんなん)城という。城の歴史は、応仁(おうにん)・文明(ぶんめい)年間(1467~1487)ごろ、菊池氏の一族出田秀信(いでたひでのぶ)が坪井川右岸の丘に城を築き、千葉城と称したのに始まる。ついで1504年(永正1)ごろ(1521~1531年との説もある)鹿子木親員(かのこぎちかかず)が茶臼(ちゃうす)山の南西端に城を移し、名も隈本(くまもと)城と改めている。のち親員の女婿城氏に譲られ、その城氏も1587年(天正15)豊臣(とよとみ)秀吉の九州征服のとき退去したため、かわって佐々成政(さっさなりまさ)が肥後(ひご)の領主として隈本城に入った。成政は検地反対の土豪一揆(いっき)を鎮圧できず、その乱の責任を負わされて切腹させられ、1588年肥後半国25万石を与えられた加藤清正(きよまさ)が入城した。関ヶ原の戦いで東軍に属した清正は、西軍に属した南肥後の領主小西行長(こにしゆきなが)の遺領をもあわせ肥後一国52万石の大名となり、1601年(慶長6)から大規模な築城工事を始め、室町~戦国期の千葉城、隈本城の地域をも含み、茶臼山全体に及ぶ新しい城を築き、名も熊本城と改めた。工事は1607年に完成した。1632年(寛永9)清正の子忠広(ただひろ)のとき改易となり、かわって細川忠利(ただとし)が入り、以来12代240年間相続して明治維新に至った。往時、天守閣が2、櫓(やぐら)49、櫓門18、その他の諸門が29あったといわれる。
天守閣(大天守、小天守)は1877年(明治10)の西南戦争直前の火災で焼失してしまい、現在の天守閣は1960年(昭和35)の再建である。「三の天守」とよばれた宇土(うと)櫓は昔のままのもので、宇土城天守を移築したものといわれているが、移築説を裏づける決定的な資料がなく、不明。そのほか現存する櫓も多く、姫路(ひめじ)城とともに遺構の多い城の代表である。石垣も高石垣、長石垣とあり、基部を緩やかなスロープにし、天端(てんぱ)近くで急に直立する「清正公(せいしょうこう)石垣」とよばれる独特の武者返しの手法が随所にみられる。熊本城は国の重要文化財、熊本城跡は特別史跡。
[小和田哲男]
熊本市中央区、茶臼山台地に聳立(しようりつ)する平山城。別名銀杏(ぎんなん)城。加藤清正・忠広,細川氏代々の居城。城郭規模の豪壮さ,堅実な構造,石垣の美観で知られる。周囲は12kmに及び,丘陵部を城郭に,侵食谷を空堀に巧みに利用し,大・小天守閣,宇土櫓(やぐら),三の丸,西出丸などを構成する。大・小天守閣は西南戦争時に焼失したが,1960年にほぼ原型どおりに復元された。旧天守閣の建築は1601-07年(慶長6-12)に竣工したといわれているが,建築様式・普請史料から豊臣期~江戸初期と推定される。大・小天守閣ともに同一石垣上に建築されている複合式形態で,大天守は地上三重6層(高さ32m)で,入母屋大屋根をもつ櫓を重ね,その上に望楼をのせ,屋根は南北に唐破風をもつ桃山式で政治・軍事用城郭である。小天守は二重4層(高さ19m)で1層の屋根が大きく,望楼は北側に寄せ,内部に書院をもつ江戸初期式の住居用城郭である。天守を支える石垣は裾広がりの扇形的線をつくり,一名〈武者返し〉といわれる特殊な工法をもち美観を呈する。天守閣に接して小西行長の宇土城天守を移したといわれる宇土櫓があり,そのほかに諸櫓や長塀が今日まで建築時の面影を伝える。なお城中に多数の深井戸があることも一つの特徴である。熊本城(13棟)は国の重要文化財,熊本城跡は国の特別史跡。
執筆者:森山 恒雄
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…8世紀中ごろ東部の出水(いずみ)地区に肥後の国府,国分寺が置かれ,その後南部の二本木に国府が移り,ここが数世紀にわたって肥後の中心となった。17世紀の初め加藤清正が築いた熊本城の城下町が市発展の基礎となり,その後細川氏54万石の城下町として栄えた。細川家に仕えた宮本武蔵は,金峰山の西,岩戸観音の霊巌洞に参禅し,《五輪書》を著した。…
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