中国,後漢の思想家。字は仲任(ちゆうじん)。会稽郡(浙江省)上虞(じようぐ)の人。わかく首都洛陽の太学(国立大学)に学び,班彪(はんぴよう)に師事した。貧書生の彼は市(いち)の書店で読みおぼえて百家の書に通じたという。これは書籍商の史上に現れた最古の例でもある。生涯の大半は,県や郡など地方官署の功曹(総務課長)を歴任して才幹を示したが,上司と合わず不遇の属吏生活に終始した。60歳で刺史董勤(とうきん)の州従事ついで州治中,62歳で退官し没年まで著述に専念した。《譏俗節義》《政務》《養性》などの著作は,主著《論衡(ろんこう)》に統合されたと考えられる。彼は経験的実証にもとづく推論を重視し,当時の讖緯(しんい)説(聖人の未来予言)や俗信・伝聞の虚妄性を指弾し,天地は物質の気で構成され万物の生滅は気の集散によるとする唯物思想と,過度の人為的干渉を排した道家系の“自然”必然的な命運の支配(命定論)を主張し,天の目的意志と政事の感応を信ずる神秘的な天人相関説を拒否した。彼の無神論と命定論は,墨家の鬼神説と非命説にあい対立する点で興味ぶかい。
執筆者:戸川 芳郎
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中国、後漢(ごかん)の思想家。字(あざな)は仲任(ちゅうじん)。会稽(かいけい)郡上虞(じょうぐ)(浙江(せっこう)省)の人。世の虚妄(きょもう)を憎み、諸説の真偽をただした『論衡(ろんこう)』30巻がある。遊侠(ゆうきょう)の家柄で、怨仇(おんきゅう)を逃れ上虞に住む。幼時から礼教的教養を身につけ、のちに上京し、班彪(はんぴょう)(3―54、『漢書(かんじょ)』の著者班固(はんこ)の父)に師事、十数年の苦学ののち帰郷。地方官吏となるが、上司と意見があわず、進退を繰り返した。章帝(在位75~88)の晩年、友人謝夷吾(しゃいご)の推挙により召徴されるが、中央での状況の変化により断念。『養性の書』を著し、不遇のなかに生を終えた。桓譚(かんたん)の批判精神を継承し時弊を指弾したが、その生成、運命、無鬼の論は、魏晋(ぎしん)の思想や唐宋(とうそう)思想に影響を与えた。
[大久保隆郎 2016年1月19日]
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…後者は湿度の変化にしたがって弦線が伸縮することを利用したもので,後代の毛髪湿度計と同じ原理による。すでに後漢の王充は,雨が降ると琴の弦がゆるむことに気付いていたが,彼の湿度計はこうした発見にもとづく。瑞光鏡とよばれたサーチライト,望遠鏡,顕微鏡などの光学機械,あるいはラセン状水車なども作った。…
…〈せいさんぴんせつ〉とも読む。中国において,人間を上中下の3種類に分ける考え方はすでに《論語》にみえているが(ただ上知と下愚とは移らず),これを本性の善悪と結びつけた性三品説は,董仲舒(とうちゆうじよ),王充,荀悦(じゆんえつ)などの漢代の学者に始まる。たとえば王充は,上智は極善,下愚は極悪であっていずれも教化の対象外であり,ただ中人のみが教育しだいで善にも悪にもなると述べている(《論衡(ろんこう)》本性篇)。…
… 児童教育の機関としては,家塾をはじめ,500戸単位の党と呼ばれる集落に〈庠(しよう)〉,1万2500戸単位の術(すい)と呼ばれる集落に〈序〉が設けられたなどといわれるけれども,詳しいことはわからない。時代がくだって,後漢の王充が8歳のときに入学した〈書館〉には100人以上の児童が在籍しており,簡単な読み書きが教えられた。王充はそこを終えるとあらためて先生について《論語》と《書経》を学び,1日に1000字の暗誦に努めたというが,おなじく後漢の邴原(へいげん)が11歳以後に学んだ〈書舎〉ではすでに《孝経》と《論語》の暗誦が行われていた。…
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年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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