大国荘(読み)おおぐにのしょう

百科事典マイペディア 「大国荘」の意味・わかりやすい解説

大国荘【おおぐにのしょう】

伊勢国飯野(いいの)・多気(たけ)両郡にあった荘園で,現三重県多気(たき)町弟国(おうぐに)を中心とする地域。812年桓武(かんむ)天皇の皇女故布施(ふせ)内親王の家領であった185町余が嵯峨(さが)天皇により京都東寺に施入されて成立。南北朝期までは東寺長者渡領で,1343年長者賢俊より東寺供僧・学衆方へ寄進された。835年荘内に散在する公田と隣接する川合(かわい)荘の田地を交換して一円化がはかられた。832年・856年には飯野郡浪人が施入され,荘官も坂田川成・同良成の名がみえるなど支配体制が整備されていった。932年当時の当荘は例領111町余(川成常荒地83町余・熟田27町余)・為他妨領田地74町余(川成荒地35町・熟田39町余)・公田妨領15町・土浪人私治田隠作24町余。神郡である飯野郡・多気郡内に位置したため,伊勢神宮権威を背景とする権禰宜神人の田堵(たと)らの地子対捍・荘田押領を受けた。10世紀初頭に下向した小寺主真演は,田堵が神宮領内に仏地あるべからずと称して地子対捍していることを報告し,11世紀末にも寺使円順らが田堵稲木大夫(権禰宜荒木田延能)や郡司と結託した在地領主・神人(じにん)らの押領が一段と進んだことが報告されている。1134年には専当(せんどう)藤井時光が大中臣(おおなかおみ)一族の押領を訴えている。また当荘は〈大河(櫛田川)之左右〉に散在していたため,氾濫の被害にもしばしば遭い,1121年の洪水では約6割の田地が流失した。供僧・学衆方領となって荘園の復興がはかられ,1344年には預所(あずかりどころ)に松鶴丸,公文(くもん)に祐宗,雑掌(ざっしょう)に親海法印を補任したが,農民の抵抗や神人浄光院,愛洲氏被官池村兄弟などの押領に遭い,あまり進まなかった。1394年荘経営の対策を幕府に依頼することを評議した記録が,荘名がみえる最後とされる。

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改訂新版 世界大百科事典 「大国荘」の意味・わかりやすい解説

大国荘 (おおぐにのしょう)

伊勢国飯野・多気両郡にあった荘園。現,三重県多気郡多気町弟国を中心とする地域。812年(弘仁3)桓武天皇皇女故布施内親王の墾田185町余が嵯峨天皇より東寺へ施入されて成立。平安~南北朝期までは東寺長者渡領,1343年(興国4・康永2)時の長者賢俊より東寺供僧・学衆方へ寄進され,供僧・学衆方領となる。835年(承和2)荘内の散在公田と川合荘田と交換,一円化がはかられ,832年(天長9),856年(斉衡3),飯野郡の浪人が施入され,荘官も坂田川成・同良成の名がみえるなど,荘支配体制が整えられた。年貢・公事の全体量は不明であるが,1028年(長元1)員弁茂助は年貢絹30疋を,1132年(長承1)には田堵60人が東寺御塔長宿直役を勤仕している。神郡である飯野郡,多気郡内に所在したため,大神宮の権威を背景とした権禰宜神人などの田堵たちの地子対捍・荘田押領にあい,荘経営は困難を極めた。10世紀初頭下向した小寺主真演は,田堵たちが神宮領内に仏地あるべからずと称し,地子対捍をしていることを報告し,11世紀末,寺使円順らの報告は,田堵稲木大夫(権禰宜荒木田延能)や郡司たちと結託した在地領主・神人たちの荘田押領が一段と進んだことを述べている。1134年(長承3)専当藤井時光も大中臣一族による押領を訴えている。これに加えて当荘は櫛田川のはんらんにしばしば遭い,とくに1121年(保安2)の洪水では約6割の田地が流失,多大の被害をこうむった。鎌倉期には1300年(正安2)雑掌任誉が年貢供銭を送付するとともに,旱損のため検見使の派遣を請うている。16年(正和5)ころには預所として祖寂房の名がみえるが,このころには地頭の押領があった。南北朝期,供僧・学衆方領となって荘園の復興がはかられ,44年(興国5・康永3)には預所に松鶴丸,公文に祐宗を,雑掌に親海法印を補任したが,農民の抵抗や,神人浄光院,愛洲氏被官池村兄弟などの押領にあい,はかばかしく進まなかった。94年(応永1)対策を幕府に依頼することを評議した〈廿一口評定記録〉を最後に荘名は消える。
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