大山荘(読み)おおやまのしょう

改訂新版 世界大百科事典 「大山荘」の意味・わかりやすい解説

大山荘 (おおやまのしょう)

丹波国多紀郡にあった東寺領荘園。現在の兵庫県篠山市の旧丹南町。空海の建てた綜芸種智院を売却して手に入れた田舎をもとに,845年(承和12),時の東寺長者実恵により立荘。総面積44町余,うち墾田は9町余で,周囲70丈余の池と野林35町があった。東寺は当荘を伝法会等にあてることとし,荘預・田堵による開発が進められた。検田使を入れ官物・雑役を課そうとする国衙に対し,東寺はそのつど抗議して現作田の免除を獲得したが,1055年(天喜3)の雷火で五重塔が焼亡したころから寺の荒廃が著しく,大山荘もいったん廃絶した。塔が再建された86年(応徳3),執行永俊による一色別符の申請に応じて源顕房は改めて仏聖灯油料として東寺に付した。その後丹波国司高階為章は寛徳(1044-46)以後の新立荘園としていったん収公したが,1102年(康和4)に再び立券され,為章もそれを承認した。その後も国役をめぐる国衙との抗争がみられるものの荘支配は安定し,02年に46町であった荘田は22年(保安3)には荘田60町となり加納田も20余町におよんだ。

 鎌倉時代,承久の乱(1221)後に中沢基政が地頭として入部して以来,東寺と中沢氏は所務をめぐる争いをくり返した。1241年(仁治2)に始まる地頭請でも年貢抑留が続き,東寺の訴えにより94年(永仁2)下地中分が決定,翌年池尻村内一井谷賀茂茎谷西田井村の田25町,畠5町と山林が東寺分と定められた。このうち西田井村では1308年(延慶1)隣接する近衛家領宮田荘と用水契約を結んだほか年貢の代銭納化がはかられる。また一井谷では18年(文保2)年貢の百姓請が始まった。しかし13世紀末いらいの東寺内部の対立は,現地の人々をまきこむようになっていた。執行職を争い悪党と呼ばれた厳増の代官が1313年(正和2)に乱入したとき,西田井では彼を支持したが一井谷では沙汰人右馬允家安を中心に反対軍勢が組織された。このとき預所となった重舜はのちに年貢抑留のかどで百姓から訴えられた。一井谷の百姓請が成立したのはその訴訟の過程においてであった。

 南北朝時代に入り1365年(正平20・貞治4)丹波守護仁木氏が半済を実施した。しかし室町幕府が寺社一円領の半済を禁止したため,69年(正平24・応安2)半済給人は退けられた。東寺は2年後の検注で支配の再建をはかり,86年(元中3・至徳3)には番頭制を導入した。この間,現地の支配は寺家・地下の代官にゆだねられていたが,守護勢力の伸張に伴い98年(応永5)の喜阿弥以来守護被官が代官になる場合もふえた。明徳の乱(1391)後守護となった細川氏はさまざまな守護役を課すとともに,段銭を恒常化し,15世紀前半に守護段銭を創出した。東寺はこれらの半額を年貢から支出し,残りを地下の負担とした。応仁の乱(1467-77)後は武家代官による20貫文の請負が行われたが,実際の納入額はその半分程度であった。1508年(永正5)討死した中沢元綱の代りに新たに代官に任ぜられた進藤元弘が,丹波地方に大きな勢力をもつ波多野氏配下の長塩元親に退けられたことにより,東寺領としての大山荘は消滅した。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「大山荘」の意味・わかりやすい解説

大山荘
おおやまのしょう

平安時代から室町時代にかけて丹波(たんば)国多紀(たき)郡(兵庫県丹波篠山(ささやま)市)に置かれていた東寺領荘園。東寺内部における大山荘支配権は、当初は伝法供家(でんぼうくけ)が握っていたが、平安末期には長者(ちょうじゃ)、鎌倉末期には執行(しぎょう)、ついで供僧(ぐそう)へと移った。大山荘は845年(承和12)太政(だじょう)官符、民部省符によって所当官物(しょとうかんもつ)免除の特権を与えられた官省符荘(かんしょうふしょう)として成立したと考えられる。その後、東寺が荘田を確保しようとするのに対して、国衙(こくが)は現作田を除く荘田を公田化して官物を徴収したため、一時は荘園としての実体を失ったが、応徳(おうとく)年間(1084~1087)の東寺塔復旧に際し、その仏供料(ぶっくりょう)などを負担する田地が設定されたことを契機として、1102年(康和4)に大山荘は官物雑役(ぞうやく)免除の一円領として再建された。鎌倉期には、承久(じょうきゅう)の乱後、荘地頭職に中沢(なかざわ)氏が補任(ぶにん)されて勢力を伸ばしたため、1241年(仁治2)に当荘は地頭請(じとううけ)となり、さらに1295年(永仁3)には下地中分(したじちゅうぶん)が行われた。以後東寺方と地頭方とは領主権を分かち、別個に支配が行われることになる。すでに鎌倉末期の1318年(文保2)に当荘内の一井谷(いちいだに)では、年貢納入を百姓が領主に対して直接に請け負う百姓請(地下請(じげうけ))が成立しているが、南北朝・室町期には、このような村落結合を基盤とした農民の対荘園領主闘争が展開し、一方、半済(はんぜい)や荘への守護役(しゅごやく)賦課などに守護勢力の進出がみられる。これに対し、東寺は代官を採用することにより荘支配を維持していたが、永正(えいしょう)年間(1504~1521)に、大山荘は丹波土豪波多野(はたの)氏の勢力下に入り消滅するに至った。

[伊藤敏子]

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百科事典マイペディア 「大山荘」の意味・わかりやすい解説

大山荘【おおやまのしょう】

丹波国多紀(たき)郡の荘園。現兵庫県篠山市大山地区を中心にした一帯。京都東(とう)寺領。綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)の建物売却代金で買得した地を,845年官省符によって立荘,総面積44町余,うち墾田9町余。東寺は田堵(たと)を使って開発を進めたが,荘園整理令を背景とした国衙(こくが)(国衙・国府)との軋轢も大きくなり,11世紀半ばには廃絶状態となった。1086年源顕房の尽力で一色田(いっしきでん)として再建,1122年には荘田60町,加納田20町となる。承久の乱後,中沢基政が地頭職を得て入部,1241年に地頭請(じとううけ),1294年には下地中分(したじちゅうぶん)が行われ,田地25町などが東寺領となり,その後一部で百姓請が実施された。室町時代になると守護勢力が伸張し,守護役や守護段銭が課せられるようになって東寺の支配はほとんど及ばなくなった。

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世界大百科事典(旧版)内の大山荘の言及

【米】より

…しかし例えば皇室領の一つで,長く持明院統の御領であった長講堂領諸荘園の1407年(応永14)の年貢は,米4140石余に対してほかに雑穀などはなく,油,絹,糸,綿,白布,炭,紙,材木薪,香,小莚(こむしろ),漆があげられている。また1266年(文永3)の東寺領丹波大山荘の領家得分は米200石を主体として麦10石,麦6斗,餅120枚のほか,少量ずつの苧(からむし),紙,布,菓子,搗栗(かちぐり),甘栗,生栗,漆,栃(とち),串柿(くしがき),薯蕷(しよよ),野老,牛房(ごぼう),苟若(こんにやく),土筆(つくし),干蕨(ほしわらび),胡桃(くるみ),平茸(ひらたけ),梨,熟柿,山牛房,糸,油があり,さらに桶類,薦(すごも),続松(たいまつ)などが見られる。荘園領主層の食料が,米を中心とすることは明らかである。…

【年貢】より

…総収穫量に対する年貢の比率は,反別の収穫量がどの程度だったのか明確でないため算出しがたいが,だいたい3割から5割程度だったと推定されている。鎌倉時代の末ごろから,丹波国東寺領大山荘や播磨国東寺領矢野荘などでは,田地を上,中,下の3等級に分かち,それぞれの斗代を決めて年貢を徴収する方法がとられている。1318年(文保2)の大山荘斗代請文によると,上田7斗5升代,中田5斗7升代,下田4斗5升代である。…

【不輸不入】より

立券荘号(りつけんしようごう)の手続を経た官省符荘(かんしようふしよう)でも,不輸租の特権は立券時の見開田(げんかいでん)(当該期すでに開発されている田)に限られた。845年(承和12)の東寺領丹波国大山荘の墾田9町144歩の不輸化は,その早い例である。したがってその後の開発田の不輸化は,あらためて国司に申請して免判を得なければならなかった。…

※「大山荘」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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