田所村
たどころむら
[現在地名]五色町鮎原田処
葛尾村の南、吉田村の東にある。南を虚空蔵山、北を鈴ガ松山に連なる山に囲まれ、中央を東から西に田所川(現吉田川)が流れる。川筋より北側を志知分、南側を本村といい、志知分はかつては天正一三年(一五八五)志知城(現三原町)城主となった加藤嘉明領であったという(「淡路草」など)。正保国絵図に田所村とあり、高一五一石余。天保郷帳では高一八五石余。反別戸数取調書では反別一九町五反余、高二〇三石余、うち一四二石余は蔵入地、六一石余が生駒隼之助ら二名の給地。
田所村
たどころむら
[現在地名]院内町田所
恵良川の支流温見川に沿って続く谷筋の最奥部にあたり、大谷渓谷がある。東は西椎屋村・野地村、南は豊後国、西は下毛郡、北は定別当村。小倉藩元和人畜改帳では田所喜右衛門手永に属し、惣庄屋が居住、高一七三石余、家数一三・人数四九(うち百姓五・牢人二・名子三)、牛五・馬二。百姓には庄屋が一名含まれる。寺院二ヵ所。延宝八年(一六八〇)には田所組に所属し、人数九四(「人畜帳」庄家文書)。元禄豊前国高帳では高一八二石余。正徳三年(一七一三)村人が巡見使に対し村役人が多いとの訴えをしたことにより、大庄屋田所政右衛門は他の大庄屋とともに御役召上げとなった(四日市村年代記)。
田所村
たどころむら
[現在地名]鯖江市田所町・神明町二―三丁目・三六町二丁目・幸町一―二丁目・神中町一―三丁目・御幸町一―二丁目・丸山町一丁目・同三―四丁目
水落村の北にあり、東は鳥羽村、北は岡野村に接する。村内を北陸街道が通る。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では今北東郡「鳥羽郷」(高二六七三・一四九石)に含まれる。正保郷帳に村名がみえ、田方三四五石余・畠方五三石余。「越前国名蹟考」は寄合村として五軒町村を記す。福井藩領。鳥羽野新町由緒書(山森家文書)によれば当村は「往来より六丁計東字古屋敷ト申所ニ居村御座候」とあり、集落は北陸街道の東方六町余の鳥羽城跡付近から、承応年間(一六五二―五五)現在地に移ったという。
田所村
たどころむら
[現在地名]塩谷町田所
熊之木村の南東、荒川左岸に位置する。近世は初め宇都宮藩領、寛延二年(一七四九)下総佐倉藩領、安永三年(一七七四)再び宇都宮藩領となり、幕末に至る。文禄四年(一五九五)の検地帳写(柿沼タカ文書)によると田方二〇町七反余・畠方二六町九反余・屋敷三町七反余、分米合せて二三六石余、家数三〇、田畑ともに中・下で地味の悪い地であった。宇都宮氏旧臣姓名書に当村の石川良助がみえる。慶安郷帳では高三二一石余、田方一五一石余・畑方一七〇石余。元禄郷帳の高四八五石余。宇都宮藩主奥平昌章は当地に御野飼場(放牧場)を開設して産馬に尽力したが、子の昌成が元禄一〇年(一六九七)に丹後国宮津(現京都府宮津市)へ国替になり廃止。
田所村
たどころむら
[現在地名]大洲市田処
現大洲市の最北端、現伊予郡双海町との境にあり、矢落川の上流、標高二五〇―四五〇メートルの山村。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の喜多郡の項に「田所村 茅山有」とある。大洲藩領。享和元年(一八〇一)の「大洲旧記」には「近辺湯並郷。粟津を飛越えて久米郷の内なる事、其故不知」と記している。
元文五年(一七四〇)の「大洲秘録」には、土産は米・大豆・栗・煙草とある。
田所村
たところむら
[現在地名]一宮市田所
東と北は光明寺村、南は古川を隔てて大毛村に接する。天保村絵図によれば概高一四一石九斗余は藩士五人の入会給知、蔵入地は新田分五石余と見取場一町五反余、田二町四反余・畑七町九反余。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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