田谷村(読み)たやむら

日本歴史地名大系 「田谷村」の解説

田谷村
たやむら

[現在地名]戸塚区田谷町

南東は長尾台ながおだい村、南は関谷せきや(現鎌倉市)、西は小雀こすずめ村、北は金井かない村、北東は飯島いいじま村に接する。南方に坪入つぼいり山があり関谷村に連なる。西に芝後しばご山がある。中央に関谷川が小雀村から来て東流し、曲流して金井村に入り、やがて柏尾かしお川に合流する。柏尾川は金井村から流れ、長尾台村に入る。なか堀は小雀村から入って南の字かぶしたで関谷川に落ちる。隅田すみだ堀は関谷川から分水して長尾台村へ入り、寺田てらだ堀も関谷川を分水して東方の字金子かねこに流れる。

正安三年(一三〇一)五月一六日の関東下知状(県史二)に「相模国長尾郷田屋村内供田捌段大」とあり、鶴岡八幡宮供僧供田があったが、一分地頭加世孫太郎長親が年々未進し、子息も同元年の御教書に応じることがなかったので地頭の知行を停止し、鶴岡八幡宮供僧賢淳分五反三〇〇歩、良演分二反三〇〇歩の下地を供僧に渡付している。


田谷村
たやむら

[現在地名]江刺市愛宕おだき

片岡かたおか村の南西、二子町ふたごまち村の北西に位置し、北上川に接する東岸低平地に立地。北上川の自然堤防上に集落が営まれたが、洪水の被害を受けやすかった。弥生時代の集落遺跡うさぎII遺跡、平安時代の江刺郡衙所在地に擬定されている落合おちあいII遺跡がある。江刺舎人(一説に清秀)が拠ったと伝える中世の田谷城(池向城)跡があり、その東隣に天和三年(一六八三)まで所在し、のち岩谷堂町に移転したと伝える光明こうみよう寺跡から室町時代後期とみられる鋳銅製の薬師如来坐像懸仏が発見されており、光明寺屋敷こうみようじやしきという小字が残る。


田谷村
たやむら

[現在地名]余目町田谷

大野おおの村の東北東にある。田屋とも書いた。地名は地内に田小屋があったことに由来すると伝えられる。寛永三年(一六二六)の開村と伝えられるが(八栄里村誌)、ほかにも諸説があり定かでない。正保郷帳に田屋村とみえ、田方九八石余・畑方九石余、新田がある。慶安二年(一六四九)松山藩領、寛文三年(一六六三)庄内藩領、天和二年(一六八二)酒井忠高領、元禄九年(一六九六)幕府領、天明元年(一七八一)から再び松山藩領。延享三年(一七四六)の狩川通大概手控帳(高橋文書)によると、高一一六石余、免五ツ五厘、家数一〇(百姓八・名子水呑二)、人数六五(男三七・女二八)、馬一。


田谷村
たやむら

[現在地名]西方村本郷ほんごう

下宿しもじゆく村の北、小倉おぐら川西岸の平坦地にある。中世以来の栃木と日光を結ぶ街道に沿う。西方郷一三ヵ村の一で、慶長年間(一五九六―一六一五)深見内ふかみうち村から分村して成立したという(西方記録)。慶安郷帳には村名がみえ、田九六石余・畑八三石余、武蔵岩槻藩領。のち下総古河藩領を経て、元禄郷帳では旗本山木領、以後幕末まで同じ。当村など平坦地に位置する九ヵ村は、正徳三年(一七一三)などに真名子まなご村、深程ふかほど(現粟野町)の山への入会権を主張するなど、山論が度々発生した(「裁許状」越路勝也文書)


田谷村
たやむら

[現在地名]館林市田谷

東は大曲おおまがり(現邑楽郡板倉町)、西は新当郷しんとうごう村、南は羽附はねつく四ッ谷よつや両村、北は北大島きたおおしま村。寛文二年(一六六二)羽附村から分村したといわれるが、寛文郷帳にはみえない。元禄郷帳では羽付村枝郷として村名がみえ、旗本彦坂・稲生領の二給。彦坂領一八六石二斗余・稲生領四四九石二斗余。のち館林藩領となり、安政二年(一八五五)の「封内経界図誌」によると田六〇町六反余・畑二四町余。四ッ谷・当郷・羽附村と岩田いわた(現板倉町)に飛地がある。


田谷村
たやむら

[現在地名]吉川町田谷

山上やまのうえ村の南に位置し、美嚢みの川と支流湯谷ゆだに川の合流点付近の丘陵地に立地する。慶長国絵図に田屋村とみえる。領主の変遷は延宝七年(一六七九)までは山上村と同じと推定され、延享元年(一七四四)大坂城代・出羽山形藩堀田氏領(「天保校訂紀氏雑録」日産厚生会佐倉厚生園蔵)、弘化二年(一八四五)遠江浜松藩(のち上総鶴舞藩)井上氏領となり、幕末に至る(旧高旧領取調帳など)


田谷村
たやむら

[現在地名]鹿島町田谷

鹿島街道沿いにあり、東は清水しみず村・明石あかし村。応安五年(一三七二)四月一七日の沙弥本光譲状写(鹿島神宮文書)に「常陸国鹿嶋郡南条沼尾宿内田野辺・田谷・笠貫・沼谷・大抜戸・東浜并野及・太宮桟敷一間以下地頭職事、右所、当太明神御敷地、沙弥本光重代相伝私領也」とあり、鹿島氏の庶子沼尾氏と思われる沙弥本光が、嫡子平次郎胤幹に所領を譲与している。また室町中期頃と思われる年未詳一一月八日の前美作守憲秀書状(烟田文書)には「田谷・保立両人之事、可被下御書候上者、先被退在所上」とみえ、村内の在地勢力として田谷氏の存在が確認される。


田谷村
たやむら

[現在地名]深谷市田谷

上唐沢かみからさわ川左岸の沖積低地に位置し、東から南は西島にしじま村、西は東大沼ひがしおおぬま村。深谷領に所属(風土記稿)。伝承によると、永禄三年(一五六〇)桶狭間合戦に敗れた今川軍の落武将高橋左近が開拓し、そこが凹地(谷地)だったのが村名の由来という。利根川氾濫原にある低湿地で、「郡村誌」にみえる上土腐かみつちぐされ・下土腐などもこうした立地条件と関連深い。深谷上杉氏支配下の頃、当地は深谷城の外曲輪にあたり、小字の速道場はやみちばも上杉氏の騎馬教練場に由来するという。


田谷村
たのたにむら

[現在地名]福井市たに

九頭竜くずりゆう川と日野川の合流点の西方、楢原ならはら村の西にある。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図に村名がみえ、高三七七・〇三一石。正保郷帳によれば田方一四一石余・畠方二三五石余。福井藩領で、文政六年(一八二三)の給人地方渡名寄帳によれば、すべてが村内にある大安だいあん寺の所領。


田谷村
たやむら

[現在地名]水戸市田谷町

水戸城下の西北に位置し、那珂川の左岸にある。西は下国井しもくにい村。南部は那珂川沿いの低地、北部は台地をなし、村の中央よりやや北方を小場江おばえ用水が西北から東南に貫流する。古代の遺跡が発掘され古くより生活が営まれていたことがわかる。鎌倉時代には国井氏の領地で、弘安大田文に「田谷東方十五丁 同田谷西方十五丁」とみえ、寛永一二年(一六三五)の水戸領郷高帳先高に「田谷村」とあり、「水府志料」に村の東西六町余・南北二六町余、戸数およそ一一六とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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