田屋村(読み)たやむら

日本歴史地名大系 「田屋村」の解説

田屋村
たやむら

[現在地名]東通村田屋

朝日奈平あさひなたい(二五七・四メートル)に発し、田名部たなぶ低地帯で田名部川に合する青平あおべら川の中流右岸に位置する。北は目名めな村、東は横流よこながれ峠を隔てて砂子又すなごまた村、西は田名部村(現むつ市)に接する。正中二年(一三二五)の安藤宗季譲状(新渡戸文書)に「うそりのかう(宇曾利郷)のうち たや(田屋)たなふ(田名部)あんと(安渡)」とあり、当地は女子とら御前に一期分として与えられている。野牛のうし蒲野沢がまのさわとともに野沢のざわ三郷と称され、金銀を産したともいう(東北太平記)下田屋しもたやの北約一・五キロの台地に将棋しようぎ館跡がある。空堀・竪穴住居跡を残し、土師器片・擦文土器片を出土。


田屋村
たやむら

[現在地名]丸岡町田屋・はつごう城北じようほくかすみおか

丸岡城下東方の山麓に位置する農村。北は赤坂あかさか村、南は曾々木そそき村。丸岡藩領。

慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図に村名がみえ、高三一五四・七四石が記される。正保郷帳では総石高一四五三・三一三石(田方一千二五六石余・畠方一九六石余)となり、大幅な減少がみられる。越前国絵図の時の田屋村より曾々木村(三六五石余)内田うちだ(二九三石余)升田ますた(一二二石余)伏屋三本木赤坂ふせやさんぼんぎあかさか(九八三石余)が分離したことによる。


田屋村
たやむら

[現在地名]婦中町田屋

井田いだ川中流右岸とうしくび用水の間に位置し、北は牛ヶ首用水を挟んで下井沢しもいさわ村、西は余川よかわ村。のちに黒田くろだ村・寺家じけ(現八尾町)浜子はまのこ村に分れた岩住いわずみ村の一部で、旅屋たやと書き、慶長一五年(一六一〇)分村した。旅屋は御旅所で、杉原すぎはら神社に関係するものと思われる(婦負郡志)。慶長八年二月七日の前田利長知行所付(「神尾氏等判物写」加越能文庫)によれば、改田小左衛門が「た屋村」で四七石を知行している。正保郷帳では高四〇一石余、田方二五町八反余・畑方九石余、新田高四五石余。享保六年(一七二一)の高四五一石余(「村付高改帳」島倉家文書)。寛政二年(一七九〇)の古高四五一石余・定免四ツ一歩三厘、新田高八〇石余・平均免一ツ二歩余、小物成は柳差役四匁五分・鮎川役四匁・鮭川役四匁・同網役二匁(高物成品々手鏡)


田屋村
たやむら

[現在地名]柏崎市田屋

東は野田のた村、西はよね山の山稜を隔て頸城くびき黒岩くろいわ(現中頸城郡柿崎町)、南は木沢きざわ村、北は谷根たんね黒滝くろたき宮窪みやのくぼ山口やまぐちの各村と山境にて接する。枝村に杉崎すぎんさき坂又さかまた屋敷やしき石塚いしづか払川はらいがわがある。近世は元和二年(一六一六)から同四年長峰藩牧野忠成領以外は柏崎町と同じ。同四年の長岡藩知行目録では高四五九石余、正保国絵図では田屋村高一五〇石余、石塚村高一二一石余、堀役村高九九石余、杉崎村高八七石余とある。


田屋村
たやむら

[現在地名]和歌山市田屋

名草なくさ郡に属し、府中ふちゆう村の南にある。村中をほぼ東西にろつ用水の一流が通る。平野中にあり、南部は紀ノ川の旧河道であったとされる。国府に隣接し、北部は条里制遺構にもみられるように古代よりの開発だが、南部は河道が南に移るに伴って開発されたものである。古代直川のうがわ(和名抄)の地とされるが、国府膝下の地であることから、長く国衙領田屋郷として存続した。

慶長検地高目録によれば高七九三石余、小物成五升四合。天保郷帳では村高は八八一石余で、一〇〇石近く増加しており、紀ノ川北岸地域を中心とした開発によるものと考えられる。山口組に属し、「続風土記」によると家数四〇、人数一九四。


田屋村
たやむら

[現在地名]福野町田屋

山田やまだ川右岸に位置し、東は安清やすきよ村など。田屋とは村から遠く離れた地を耕作するときに農具や肥料を収めたり農繁期に寝泊りするために造った小屋の意で、新開を進めて農耕に励んだのが村名の由来であろう。現在、山田川には田屋橋が架けられ、橋の付近は田屋川原古戦場跡とされる。文明一三年(一四八一)二月福光ふくみつ城主石黒左近光義が一向一揆の拠点であった井波瑞泉いなみずいせん寺を攻める途中、山田川の当地の河原で一揆勢と戦ったが、その後敗れて石黒主従一六人は安居あんご寺で自害している(闘諍記)。元和五年(一六一九)の家高新帳に「たや」とみえ、役家数七。正保郷帳では高七〇二石余、田方四六町七反・畑方一反余。


田屋村
たやむら

[現在地名]津幡町田屋

岩崎いわさき村の北、津幡川上流両岸に位置。左岸の集落は、近世末期火災を機に右岸の古屋敷ふるやしき集落より移転したという。正保郷帳では高二七三石余、田方一二町・畑方六町二反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の草高二八七石、免五ツ四歩、小物成は山役九七匁・野役二匁・蝋役一匁(三箇国高物成帳)。寛文年間の百姓数一三(高免付給人帳)。文化八年(一八一一)の産物は菜種一斗ほど・蚕繭五五貫目ほど・串柿三〇束ほど・割木二千貫目ほど・莚四五束ほど(「村々諸産物書上帳」新田文書)


田屋村
たやむら

[現在地名]福光町太美ふとみ

重安しげやす村の南、小矢部おやべ川東岸の段丘地にある。元和五年(一六一九)の家高新帳に「たや村」とみえ、左次兵衛組に属し、役家数四。正保郷帳では高二〇五石余、田方七反余・畑方一二町九反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の草高二一九石、免五ツ、小物成は山役四四匁・蝋役三匁。その後五三石が貞享三年(一六八六)検地引高となり、一方元禄四年(一六九一)の添開高五斗余が加わった(三箇国高物成帳)。寛政四年(一七九二)には大西先組に属し、家数一四(うち頭振一)・人数七八(うち頭振三)、馬八(「大西先組覚帳」福光町立図書館蔵)


田屋村
たやむら

[現在地名]板倉町田屋

馬屋まや(現清里村)からくる東山ひがしやま街道(山寺街道)と、長嶺ながみね村・長塚ながつか村からくる関田せきだ街道の合流点に位置し、東を別所べつしよ川が北流する。南は四ッ屋よつや村、北は沢田さわだ村。正保国絵図に高三一三石余とある。天和三年(一六八三)検地帳(鴨井文書)によれば高二八五石余、うち山高七石二升四合・漆高五升、田一九町余・畑二町八反余。


田屋村
たやむら

[現在地名]加西市田谷町たやちよう

油谷ゆだに村の東、油谷川の上流域に位置する。中世は多可たか庄に属し、当地付近は宇仁うに郷とよばれた。文禄四年(一五九五)八月一七日の豊臣秀吉知行方目録(木下家文書)に「た屋村・くにまさ村」とみえ、両村合せて五二一石が記される。慶長国絵図には多野村とある。領主の変遷は鍛冶屋かじや村に同じ。正保郷帳には田谷村とあり、田方七五九石余・畑方九九石余。


田屋村
たやむら

[現在地名]梓川村大字梓 田屋

金松寺きんしようじ山の東麓、梓川左岸段丘上に立地する村落。初見は寛永一九年(一六四二)の信州松本御領分村々高附帳である。村高は江戸時代を通じてあまり増加がみられない。尾入沢おいりざわの右岸のあらがいと・中丸田なかまるだから当村に通ずる荒坂あらさかに西牧氏の砦跡が存在する。

嘉永元年(一八四八)の田屋村田畑質流下作高内調帳(中沢有斐氏蔵)によれば持高(預高)は五俵未満一二人、一〇俵未満一〇人、二〇俵未満一一人、三〇俵未満三人、四〇俵未満二人、四〇俵(持高一〇石)一人、総計四六二俵(四〇人)、下作高は全部で二三八俵(二九人)で、このうち六二俵が地主分、小作分一七六俵とされている。


田屋村
たやむら

[現在地名]下田村田屋

五十嵐いからし川右岸の河岸段丘面から沖積地にかけてあり、上流は森町もりまち村、下流は江口えぐち村。正保国絵図では高一一〇石余。正保(一六四四―四八)初年の物成高を記した「初免石」(「村松小史」渡辺芳江氏蔵)では九七石四斗余・家一四戸。文化一一年(一八一四)の森町組家数書上帳(金子泰夫氏蔵)では家数二一、ほかに肝煎組頭二。三組役成帳(藤田稔氏蔵)によれば、村域内に「前谷五ケ村用水」の取入口があり、水門は「大荘之門樋」のため、江筋守料が支払われている。


田屋村
たやむら

[現在地名]明和町田屋

はらい川下流の西方にあり、北はなか村、東は養田丹川ようだにかわ村、西は志貴しき村に接し、南は前野まえの村に通ずる。慶長一三年(一六〇八)より津藩領。寛政七年(一七九五)八月付田屋村新田畑畝高帳(徳川林政史蔵)が残る。


田屋村
たやむら

[現在地名]糸魚川市田屋

かな(一九六・七メートル)の東麓、はや氾濫原の山裾にある。東は道明どうみよう村、北は梶屋敷かじやしき村。不動山ふどうやま城の支城である金山城の居館があったと推定され、東西一二〇メートル・南北二一〇メートルの地にたてうちの地名が残る。


田屋村
たやむら

[現在地名]五泉市田屋、新津市田屋

早出はいで川左岸の氾濫原にあり、南は下条しもじよう村、西は船越ふなこし村に接する。

元和九年(一六二三)の開発と伝え(白川風土記)、貞享元年(一六八四)の村上藩領分郷村高辻帳に高五七石六斗余とある。宝永七年(一七一〇)幕府領となり、以後高田藩領・白河藩領などを経て幕末は桑名藩預所(旧高旧領取調帳)


田屋村
たやむら

[現在地名]羽黒町町屋まちや

町屋村の北にあり、代屋とも記した。元和八年(一六二二)の酒井氏知行目録に村名がみえ、高一〇二石余。寛永元年庄内高辻帳では高一七四石余。弍郡詳記によれば、高一七二石余、免五ツ一分、家数一三。


田屋村
たやむら

[現在地名]長岡市古正寺こしようじ

信濃川左岸に近く、長岡町の対岸に位置する。東は古正寺村、北は寺島てらじま村。槙山まきやま村の枝郷。周辺より比較的高地にあるため、開発時期は寺島村と同じ頃と思われる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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