( 1 )文字通りには「かんがえて当てる」という①の意味で、上代・中古の文書にその例を確認できるが、さらに②のような限定的な意味でも上代から用いられており、中国の古典籍にも認められる。
( 2 )中古になると、③のような日本独自の意味が現われ、近世以降は、④⑤の親や上位者が子や下位者との縁を絶つという現代の用法に通じる意味で用いられるようになる。
近世の法制度において,在宅者を家から追放し,家族関係を公的に解消することで,正式には領主の許可を得て行うものであった。勘当を実行するのは,その人物のひきおこす事件が家族に影響を及ぼさないようにするためであり,家族内部の秩序維持というよりも,社会的な責任を逃れようとしたものであるが,同時に家の相続に関連して相続権を放棄させる目的も含まれており,地主層や商人たちによって行われた。このような勘当は近世の幕藩権力が社会秩序を維持するために制度化したものであり,日本の伝統的家族の内部で行われていたものではなかったと判断される。そのことは,家族生活をめぐる諸事象については各地でそれを表現する独自の民俗語彙(ごい)があるのに対し,勘当にはそれに相当する民俗語彙がなく,全国的に法制上の用語である勘当が使用されていることで裏付けられる。
執筆者:福田 アジオ 平安時代から中世にかけて,天皇や主君の勘気をこうむること,および親が子との関係を断絶すること(この意味では不孝(ふきよう),義絶ともいう)を勘当と称した。江戸時代になると,勘当の語は主として親子関係を断絶する行為を意味したが,ほかに師匠が弟子との師弟関係を断つ場合にも用いられた。江戸時代には親族関係断絶行為をあらわすことばとして,勘当のほかに久離と義絶があり,3者はしばしば混同して用いられたが,安永(1772-81)ころになると,勘当は家にある子を懲戒のため放逐する行為をさすようになり,子以外の親族やすでに家出している子との親族関係を断つ久離と区別された。その後,武士と庶民とで,勘当,久離のとなえかたを異にした時期もあり,またのちには武士,庶民を通じて,追出し行為たる勘当も,そうでない久離も,共に久離と称し,とくに両者を区別するときは,勘当のことを追出久離,家出人に対する久離を出奔久離(武士),欠落(かけおち)久離(庶民)ととなえることも行われた。勘当の本来の目的は親の子に対する懲戒であるが,血族関係にもとづく連帯責任を避け,また素行不良の子による家産の蕩尽を防ぐことも副次的目的であった。勘当によって親子の関係は断絶し,子は相続権を失った。ただし勘当は,口頭または文書で申し渡しただけでは内証勘当であり,所定の手続を経てはじめて法律上の効果を発生した。その手続は久離の場合と同じであって,幕府御料か私領かの区別,武士か百姓か町人かのちがい等によって差異があったが,比較的簡単な江戸,大坂の町人の場合であっても,町奉行所に願い出てその許可を受け,帳簿に記載してもらわなければならず,私領の領民や,武士でも陪臣となると,領主や主人の許可を受けるだけでなく,幕府の三奉行それぞれに届け出て,町奉行から書替(帳簿記載の謄本)を受けなければならなかった。勘当を宥免する場合も,勘当するときと同様,主人や領主,役人等に願い出て,帳消し(帳簿記載の抹消)をしてもらわなければならなかった。正規の勘当はこのように煩雑な手続を必要としたから,地方によっては内証勘当にとどめ,正式の勘当は行わない慣習のところもあった。勘当に際しては,当時の歌舞伎や小説に見られるように,紙子(かみこ)に着替えさせて追い出す慣習もあった。勘当したりこれを宥免したりする権利は親(とくに父)の有するところで,父死亡後は母もしくは兄がこの権利を行使した。このような場合の兄の勘当権については,これを親代りの兄が親に代わって親権を行使するものと解する説と,兄が当主たることにもとづいて行使する当主権の発動であるとみる説とが対立している。明治になって勘当の制度は廃止されたが,明治民法に見られる法定推定家督相続人の廃除(廃嫡)や戸主の居所指定権ないし離籍権は,そのなごりであるとも考えられる。
執筆者:林 由紀子
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
もともとは法家(ほうか)の術語で、罪を勘(かんが)えて法に当てることをいい、中世では主君の勘気を被ること、および親が子との縁を切ることの意味に使われた。近世以後、親が子との縁を切ること、すなわち懲戒の意味で、親が子を家から追放する行為をさすようになった。親族関係も当然断絶されるわけで、その意味で久離(きゅうり)の一種とも考えられる。事実、江戸町奉行(ぶぎょう)所では、久離を欠落(かけおち)久離、勘当を追出(おいだし)久離とよんで区別するようになった。
勘当は、単に口頭または文書をもって言い渡しただけでは、いわゆる内証(ないしょう)勘当であって、法律上の効果を発生しなかった。有効にするためには、江戸の町奉行所に帳付け(登録)をしてもらう必要があった。その手続は、庶民の場合、願い出を受けた代官がこれを許可すると、公事方(くじかた)勘定奉行へ届け出る。勘定奉行は寺社・町両奉行へ通達する。町奉行所ではこれを言上帳に記入し、その書替(謄本)が勘定奉行、代官を経て願人へ交付されるという段取りがとられた。幕臣については、勘当は大目付への届出によって行われた。勘当された子は相続権を失い、親はその子に関するいっさいの責任を逃れることができた。勘当された者が素行を改めた場合、先に勘当を願い出た者は代官役所(または奉行所)に帳消し(帳付けの取消し)を願い出ることができた。
[石井良助]
「かんとう」とも。(1)勘気をこうむること。勘事ともいう。律令の用語では罪を勘(かんが)えて刑をあてることを意味していたが,平安時代以降は,転じて勘気をこうむることを意味するようになった。とくに天皇の勘気をこうむることを勅勘とよぶ。(2)中世になると主君の勘気をこうむることのほか,親が子を絶縁する場合にも用いられるようになった。後者の意味では不孝(ふきょう)・義絶の語も使われた。近世では親がこらしめのために子を絶縁して家から追い出す行為を意味し,出奔した子に対する親の絶縁(久離(きゅうり))とは一応区別された。ただし,追出久離とも称する。勘当は,親が口頭または文書で申し渡すだけ(内証勘当)の場合もあったが,法的効力をもつには,幕臣は大目付,その他の武士は主君,幕領の町人・百姓は町奉行所・代官所,私領民は領主に願い出,それより幕府の三奉行に届け出て,江戸町奉行所の言上帳に登録のうえ,その謄本である書替を受理する必要があった。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
字通「勘」の項目を見る。
出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
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出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…義絶には義絶状の作成・公示が要件となっていた。義絶の原因はおもに子の親に対する不孝とされたために,義絶することを〈不孝(ふきよう)する〉〈勘当(かんどう)する〉ともいった。日本中世における親権のあり方を示すとともに,日本と中国の家族関係・秩序の差異を示すものとして注意される。…
…旧離とも書き,江戸時代に伯父・兄など目上の親族から,甥・弟など目下の親族に対して申し渡す親族関係断絶行為を意味した語。ただし勘当,義絶などと混同されたことも少なくない。子に対しては,出奔した子に対する場合のみを久離(武士の場合は義絶とも称する)とし,在宅の子を追い出して絶縁する場合は勘当と呼ぶことが,すでに安永(1772‐81)ころから行われていたが,やがて勘当も,追出久離と呼ばれて久離の一種として扱われるようになった。…
…無宿ともいう。当時は刑罰が連座制であるため,不法行為を行うおそれのある子をもった親は,その子を勘当し,さらに人別帳からの抹消を願い出て公認されると,その子は帳外となる。18世紀末の天明期(1781‐89)ごろから勘当が同時に帳外となるようになり,19世紀初頭の文化期(1804‐18)ごろからは勘当されていない要注意者を村役人が帳外扱いをして,人別帳に札をつけておくところから,〈札つき〉の称がおこったという。…
…不孝された者は,家から追放され,嫡子に立って家を継ぐ身分も,祖父母,父母の財産の分与にあずかる資格もともに奪われ,すでに与えられた財産も取り上げられた。 なお中世法には,不孝と類似の法律行為に義絶と勘当がある。義絶は中世では不孝と同じく祖父母,父母の子孫に対する親子・祖孫関係の断絶を意味したが,不孝が純然たる同族内の行為にとどまるのに対して,義絶には,親子・祖孫関係の断絶という行為に加えて,その事実を族外世間に公示して,承認を得る手続(義絶状の作成公表)が求められた。…
※「勘当」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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