真田幸貫(読み)さなだゆきつら

精選版 日本国語大辞典 「真田幸貫」の意味・読み・例文・類語

さなだ‐ゆきつら【真田幸貫】

  1. 江戸後期の老中。信州松代藩主。老中松平定信の二男。幸専(ゆきたか)養嗣子。産業開発を図り、人材育成につとめ臣下に佐久間象山村上英俊など逸材を輩出した。天保一二年(一八四一)老中。寛政三~嘉永五年(一七九一‐一八五二

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「真田幸貫」の意味・わかりやすい解説

真田幸貫
さなだゆきつら
(1791―1852)

江戸後期の老中。信濃国松代藩(まつしろはん)主。信濃守。号は遂翁(すいおう)、一誠斎(いっせいさい)。陸奥国(むつのくに)白河藩主松平定信の次男で、真田幸専(ゆきたか)の養子となり、1823年(文政6)家督を継ぎ10万石を領した。藩政改革を実施し、とくに富国強兵策を採用し、藩士佐久間象山(さくましょうざん)を抜擢(ばってき)して、洋学や西洋砲術の研究、洋式大砲・鉄炮の鋳造殖産興業の実施、藩校文武学校(ぶんぶがっこう)の創設などを推進した。1841年(天保12)幕府老中に登用され、海防掛として、1842年に異国船打払令(いこくせんうちはらいれい)を撤回した。しかし老中水野忠邦(ただくに)の失脚と天保(てんぽう)改革の挫折(ざせつ)のなかで、幸貫は1844年(弘化元)病気を理由に老中を辞任した。

[森 安彦]

『田中誠三郎著『真田一族と家臣団』(1979・信濃路)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「真田幸貫」の意味・わかりやすい解説

真田幸貫
さなだゆきつら

[生]寛政3(1791).9.2. 江戸
[没]嘉永5(1852).6. 江戸
江戸時代後期,信州松代藩主。松平定信の次男。松代藩真田幸専 (ゆきたか) に実子がなかったため乞われて養子となった。幼名は次郎。文化 13 (1816) 年幸善と称し,文政6 (23) 年家督を継いで幸貫と改名。信濃守。致仕したのち,遂翁,一誠斎と号した。父定信の影響を受けて文武の奨励,産業の開発に努めた。天保の改革に際して水野忠邦に協力し,天保 12 (41) 年から弘化1 (44) 年まで老中として補佐した。しかし晩年は藩財政の窮乏に苦しんだという。幸貫自身英才の資質をもち,臣下に俊才も多く,佐久間象山や村上英俊らがいた。

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朝日日本歴史人物事典 「真田幸貫」の解説

真田幸貫

没年:嘉永5.6.3(1852.7.19)
生年:寛政3.9.2(1791.9.29)
江戸後期の松代(長野県)藩主。白河藩主松平定信の次男。母は貞順院(中井氏)。江戸に生まれ,真田幸専の養子となり,文政6(1823)年家督を継ぎ10万石を領した。質素倹約に努め,文教を振興して人材の育成にも力を注いだ。この結果佐久間象山,村上英俊らの人材が育った。また殖産興業を奨励,藩治の成績もよく,水戸藩主徳川斉昭の推薦もあって幕府老中水野忠邦らが幸貫の入閣に努力し,天保12(1841)年幕府老中に抜擢された。忠邦の天保改革に協力するが,14年11月中旬より病気で欠勤,翌弘化1(1844)年5月病気で辞職し,嘉永5(1852)年に至って隠居した。

(上野秀治)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「真田幸貫」の解説

真田幸貫 さなだ-ゆきつら

1791-1852 江戸時代後期の大名。
寛政3年9月2日生まれ。松平定信の次男。真田幸専(ゆきたか)の養子となり,文政6年信濃(しなの)(長野県)松代(まつしろ)藩主真田家8代。天保(てんぽう)12年老中,海防掛となり,佐久間象山(しょうざん)を顧問役とする。藩政の改革,藩校文武学校の開設につとめた。嘉永(かえい)5年6月17日(3日,8日とも)死去。62歳。初名は幸善。号は遂翁,一誠斎。

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367日誕生日大事典 「真田幸貫」の解説

真田幸貫 (さなだゆきつら)

生年月日:1791年9月2日
江戸時代末期の大名
1852年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の真田幸貫の言及

【松代藩】より

…江戸時代,信濃国(長野県)埴科郡所在の松代城(海津城,川中島城)を拠点とし川中島4郡内を藩域とした藩。藩主は森長可―(上杉景勝)―田丸直昌―森忠政―松平忠輝―松平忠昌―酒井忠勝と変転したが,1622年(元和8)外様大名真田信之の松代入封によって固定化し,連綿廃藩に及んだ。真田松代藩の初期知行高は13万石,うち3万石は支藩上州沼田領だったが81年(天和1)除封。信州10万石の内高は12万2000石前後,その内訳は藩蔵入地60%対藩士地頭知行所40%,1741年(寛保1)以降は藩の半知政策の恒常化により80%対20%に変移した。…

【老中】より

…私日記ではなく公的なもので幕府日記の欠を補う。老中日記が現存する老中を所蔵機関別に列挙すると,姫路城天守閣保管酒井家文書中に酒井忠恭(ただずみ),東京都立大学付属図書館所蔵水野家文書中に松平乗賢・松平武元(たけちか)・西尾忠尚・板倉勝清・松平康福(やすよし)・久世広明(ひろあきら)・牧野貞長・阿部正倫・安藤信成・戸田氏教・土井利厚・牧野忠精(ただきよ)・青山忠裕(ただやす)・水野忠成(ただあきら)・松平信明(のぶあきら)・酒井忠進(ただゆき)・阿部正精(まさきよ)・大久保忠真・松平輝延・松平乗寛・松平康任(やすとう)・水野忠邦・阿部正弘・水野忠精(ただきよ)・久世広周(ひろちか),東京大学史料編纂所所蔵のものに水野忠友・水野忠成,国立史料館所蔵真田家文書中に青山忠裕・水野忠邦・真田幸貫(ゆきつら)・阿部正弘・戸田忠温(ただよし),国立公文書館内閣文庫所蔵のものに井上正春の30名(重複を除く)である。水野家文書のものは水野忠邦・忠精以外,真田家文書のものも真田幸貫以外は,老中勤役中借写したものである。…

※「真田幸貫」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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