江戸後期の老中。信濃国松代藩(まつしろはん)主。信濃守。号は遂翁(すいおう)、一誠斎(いっせいさい)。陸奥国(むつのくに)白河藩主松平定信の次男で、真田幸専(ゆきたか)の養子となり、1823年(文政6)家督を継ぎ10万石を領した。藩政改革を実施し、とくに富国強兵策を採用し、藩士佐久間象山(さくましょうざん)を抜擢(ばってき)して、洋学や西洋砲術の研究、洋式大砲・鉄炮の鋳造、殖産興業の実施、藩校文武学校(ぶんぶがっこう)の創設などを推進した。1841年(天保12)幕府老中に登用され、海防掛として、1842年に異国船打払令(いこくせんうちはらいれい)を撤回した。しかし老中水野忠邦(ただくに)の失脚と天保(てんぽう)改革の挫折(ざせつ)のなかで、幸貫は1844年(弘化元)病気を理由に老中を辞任した。
[森 安彦]
『田中誠三郎著『真田一族と家臣団』(1979・信濃路)』
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(上野秀治)
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…江戸時代,信濃国(長野県)埴科郡所在の松代城(海津城,川中島城)を拠点とし川中島4郡内を藩域とした藩。藩主は森長可―(上杉景勝)―田丸直昌―森忠政―松平忠輝―松平忠昌―酒井忠勝と変転したが,1622年(元和8)外様大名真田信之の松代入封によって固定化し,連綿廃藩に及んだ。真田松代藩の初期知行高は13万石,うち3万石は支藩上州沼田領だったが81年(天和1)除封。信州10万石の内高は12万2000石前後,その内訳は藩蔵入地60%対藩士地頭知行所40%,1741年(寛保1)以降は藩の半知政策の恒常化により80%対20%に変移した。…
…私日記ではなく公的なもので幕府日記の欠を補う。老中日記が現存する老中を所蔵機関別に列挙すると,姫路城天守閣保管酒井家文書中に酒井忠恭(ただずみ),東京都立大学付属図書館所蔵水野家文書中に松平乗賢・松平武元(たけちか)・西尾忠尚・板倉勝清・松平康福(やすよし)・久世広明(ひろあきら)・牧野貞長・阿部正倫・安藤信成・戸田氏教・土井利厚・牧野忠精(ただきよ)・青山忠裕(ただやす)・水野忠成(ただあきら)・松平信明(のぶあきら)・酒井忠進(ただゆき)・阿部正精(まさきよ)・大久保忠真・松平輝延・松平乗寛・松平康任(やすとう)・水野忠邦・阿部正弘・水野忠精(ただきよ)・久世広周(ひろちか),東京大学史料編纂所所蔵のものに水野忠友・水野忠成,国立史料館所蔵真田家文書中に青山忠裕・水野忠邦・真田幸貫(ゆきつら)・阿部正弘・戸田忠温(ただよし),国立公文書館内閣文庫所蔵のものに井上正春の30名(重複を除く)である。水野家文書のものは水野忠邦・忠精以外,真田家文書のものも真田幸貫以外は,老中勤役中借写したものである。…
※「真田幸貫」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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