日本歴史地名大系 「白浜村」の解説
白浜村
しらはまむら
現白浜町の中央部東寄りに位置し、西は
慶長二年(一五九七)の安房国検地高目録に村名がみえ、高一千一九五石余(うち田高八二三石余)、里見氏直轄領。同一一年の里見家分限帳では同直轄領一千一〇二石余、ほかに
白浜村
しらはまむら
本格的な開発は近世初期に明神家の手で行われた。「南路志」所収の系図によれば、尾張出身の六左衛門が戦国末期に和泉国を経て土佐へ来住、長宗我部元親に仕えたのが最初で、六左衛門とその長子は朝鮮に出征して戦死。次子は関ヶ原の戦後、元親の子盛親に仕えたが帰国し甲浦に住んだ。その子が白浜の開発者となった忠右衛門信勝である。信勝は二二歳のとき、大坂の陣に盛親に従い手柄をたてたが敗戦ののちに諸国を流浪、結局甲浦へ帰り住んだ。寛永八年(一六三一)奉行職野中玄蕃から白浜来住者に対する諸役地子免除の約束を得て開発を始め、翌年には二代藩主山内忠義の黒印状も与えられた。黒印状には「甲浦之内白浜新地申付定」として「一、地子用捨之事」「一、宿送水主役用捨之事」「一、小物成田畠役并新塩浜等不残用捨之事」とあり、「右新浜就取建令用捨候、網代其外浦浦法度之義自前に如有来候、甲浦なみに相違仕まじく候、万端之儀富永伊織に相尋可任差図者也」と記される。
白浜村
しらはまむら
- 静岡県:下田市
- 白浜村
白浜村
しらはまむら
白浜村
しらはまむら
- 鹿児島県:川内市
- 白浜村
白浜村
しらはまむら
- 長崎県:諫早市
- 白浜村
白浜村
しらはまむら
白浜村
しらはまむら
白浜村
しらはまむら
- 愛知県:津島市
- 白浜村
白浜村
しらはまむら
白浜村
しらはまむら
- 長崎県:松浦市
- 白浜村
志佐村の西部に位置し、北は海に面する。中世は志佐浦のうちで、永徳四年(一三八四)二月二三日の下松浦住人等一揆契諾状(山代文書)に「しさのしらはま白浜後家代弘」とみえ、当地を拠点とする白浜氏が下松浦の一揆に加わっている。同日の下松浦住人等一揆契諾状案(青方文書)にも同様にみえる。江戸時代は平戸藩領で、志佐筋に属する。正保国絵図に白浜村とあり、高三二六石余。明暦二年(一六五六)の田方帳抜書では
白浜村
しらはまむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報