白浜村(読み)しらはまむら

日本歴史地名大系 「白浜村」の解説

白浜村
しらはまむら

[現在地名]白浜町白浜

現白浜町の中央部東寄りに位置し、西は滝口たきぐち村、東は乙浜おとはま村、北ははた(現館山市)。南は太平洋に面した海岸段丘の農・漁村で、湊町でもある。太平洋に向かって野島のじま崎が突き出し、村の北部を長尾ながお川が流れる。古代の平群へぐり郡白浜郷(和名抄)の遺称地とされる。「延喜式」兵部省諸国馬牛牧条にみえる「白浜馬牧」は毎年五、六歳馬を右馬寮に貢進しているが、白浜郷が牧に移行したものともいわれ、現白浜町域に比定する説がある。野島崎の北東、字一切経の城いつさいきようのしろ山に白浜城跡がある。標高一五〇メートルの山頂を中心に東西約四〇〇メートルの規模が想定され、尾根状の小郭に腰曲輪が階段状にめぐらされている。安房里見氏初代の義実が居城したと伝える(延命寺本「里見系図」、「房総里見軍記」)。永享一二年(一四四〇)の結城合戦後、里見義実が安房国に入部するに際し「三浦介が兵士数十人を頼み、船に乗りて房州の白浜に押し渡る」(「房総軍記」房州大乱の事)、「結城より木曾右馬之丞氏元・堀内蔵人貞行を御供にて三浦へ落ち、三浦の兵を頼んで安房の白浜へ渡る」(「里見九代記」里見刑部少輔義実公の御事)、「これより安房国へ渡らんとて、海人を頼みて浜地に下り給ひけり、海人承り、急ぎ船を浮べければ、折節順風吹き送り、白浜といふ在所に着きにけり」(里見代々記)と伝えられている。諸家系図纂(源氏里見系図)および前掲里見系図の義実についての注記には、「安房国井戸村白浜へ渡海、長田ノ入江堀ノ内ヲ構ヘテ住ス」とみえる。

慶長二年(一五九七)の安房国検地高目録に村名がみえ、高一千一九五石余(うち田高八二三石余)、里見氏直轄領。同一一年の里見家分限帳では同直轄領一千一〇二石余、ほかに妙音みようおん(現館山市)領五五石余・杖珠じようしゆ院領二〇石・珠林寺領一五石・意月庵(のちの福寿院か)領二石余がある。


白浜村
しらはまむら

[現在地名]東洋町白浜

甲浦かんのうら村の西南に位置し、西は河内かわうち村。南の海岸線は村名のとおり白砂で遠浅の入海が連なる。その砂丘上に開発された新田村で、周囲一・五キロの小村。中央をほぼ東西に土佐街道(東街道)が貫く。天正一七年(一五八九)の長宗我部地検帳では付近の甲浦・河内とともに「浅間庄甲浦」に含まれ、白浜新開の見出しで数筆の記載があるが、いずれも下々畠・下畠・下々屋敷と格付は低い。

本格的な開発は近世初期に明神家の手で行われた。「南路志」所収の系図によれば、尾張出身の六左衛門が戦国末期に和泉国を経て土佐へ来住、長宗我部元親に仕えたのが最初で、六左衛門とその長子は朝鮮に出征して戦死。次子は関ヶ原の戦後、元親の子盛親に仕えたが帰国し甲浦に住んだ。その子が白浜の開発者となった忠右衛門信勝である。信勝は二二歳のとき、大坂の陣に盛親に従い手柄をたてたが敗戦ののちに諸国を流浪、結局甲浦へ帰り住んだ。寛永八年(一六三一)奉行職野中玄蕃から白浜来住者に対する諸役地子免除の約束を得て開発を始め、翌年には二代藩主山内忠義の黒印状も与えられた。黒印状には「甲浦之内白浜新地申付定」として「一、地子用捨之事」「一、宿送水主役用捨之事」「一、小物成田畠役并新塩浜等不残用捨之事」とあり、「右新浜就取建用捨候、網代其外浦浦法度之義自前に如有来候、甲浦なみに相違仕まじく候、万端之儀富永伊織に相尋可差図者也」と記される。


白浜村
しらはまむら

[現在地名]下田市白浜

柿崎かきさき村の北に位置し、東に相模灘を望む。山に囲まれ、東に傾斜したわずかな平地を一色いつしき川・古根こね川が東流して相模湾に注ぐ。海岸線はおもに白砂青松と岩石で形成される。海岸近くを南北に東浦ひがしうら路が通る。鎌倉前期の某和歌集「閑谷集」の詞書に「しらはまの大明神」がみえ、「もらさすてわれもみちひけしら浜のまさこのかすにあらぬ身なれと」と詠じられている。暦応二年(一三三九)七月一六日、「入江三郎□衛門尉跡」の白浜村地頭職が走湯山(伊豆山神社)に寄進された(同三年六月一九日「散位某奉書」醍醐寺文書)。暦応四年八月の伊豆山中堂本地供置文案(同文書)に「料所 伊豆国白浜村」とみえ、同村の年貢のうち六〇結(六〇貫文)が供料に充てられている。貞治四年(一三六五)の伊豆山密厳院領年貢米銭・田畠注文(伊藤一美氏所蔵文書)には異筆で白浜村と補書されている。応永五年(一三九八)六月二五日に山城醍醐寺にもたらされた密厳院領関東知行地注文案(醍醐寺文書)に白浜郷がみえ、知行地の一つとなっている。


白浜村
しらはまむら

[現在地名]桜島町白浜

二俣ふたまた村の東隣に位置する。天正一〇年(一五八二)頃に上井覚兼の所領となったらしく、「上井覚兼日記」同一一年一月一九日条に「向島拙者領分白浜」とみえる。覚兼は任地宮崎と鹿児島の往復の途中しばしば当地に立寄り、漁火漁(同書同年三月一日条)や引網を見物し獲れた魚を賞翫したり(同書同一二年六月一二日条)、「月に雲風の上なる心かな」と詠んだり(同書同一一年八月二三日条)、大乗坊と「周易」を談じ、「伊勢物語」を読んだり(同書同一二年一一月二八日条)、塩風呂に入ったりなどしている(同書同一三年一〇月六日条)。翌一一年から隣接する二俣と境相論があり、同一二年六月二俣の領主本田正親は覚兼に解決を求めたが、覚兼は当事者であることを理由にむかい島地頭川上源五郎に仲裁を委ね、同一三年二月二七日、平田宗位・木脇祐允・三原重隆らが現地に赴き、当地と二俣双方の百姓の主張を聞き、係争地を検分した結果(同書同月二六日条)、とひ石という所から浜へ真っすぐに見通した線を境とすることとなった。


白浜村
しらはまむら

[現在地名]川内市白浜町

とう田海とうみ村の南東、川内川左岸にある。西流してきた川内川は当村付近で曲流して向きを南に転じて流れる。そのため左岸に寄洲ができ、白浜の地名が生じたという。東は樋脇ひわき楠元くすもと村、南東は平佐ひらさ天辰あまだつ村。康永四年(一三四五)七月一〇日の島津道鑑書下(旧記雑録)に「白浜村」とみえ、同村を所領とする白浜五郎が島津貞久(道鑑)方につくこととなり、売残した田一町・薗三ヵ所を預け置かれている。東郷氏七代右重の子重貫は白浜の地を領し白浜氏を称したとされ、重貫の子重元は五郎を称しているので、白浜五郎は重元であろうか(「地誌備考」所載「旧史官調中」)


白浜村
しらはまむら

[現在地名]諫早市白浜町・白原町しらはらまち猿崎町さるざきちよう

東長田ひがしながた村の北東、深海ふかのみ川の河口部右岸に位置する。諫早湾に臨む。堀の内ほりのうち高野こうや宮木みやき三郎さぶろうなどの地名があり、中世の居館などがあったと想定しうる。近世は諫早郷に属し、肥前佐賀藩親類同格の諫早家領。正保国絵図に「白浜村」とみえ、高八一石余。玄梁院代配分村付帳では地米高五八石余(大小配分石高帳でも同高)。天明七年(一七八七)の佐賀領村々目録では高八一石余。享和三年(一八〇三)の郡村仮名付帳ではシラバマとする。天保三年(一八三二)の諫早領田畑石高帳では田一一町八反余・地米四四石余、畑九町八反余・地米二一石余、茶二畝余・地米二斗余、畦六反余・地米七斗余、ほかに出来田二反余・地米六斗余、出来畑二町五反余・地米一石余。


白浜村
しらはまむら

[現在地名]田鶴浜町白浜

田鶴浜村の北西にあり、七尾西湾に北面する。内浦街道が通る。中央部にエンヤマとよばれる小高い丘があり、その海側をウラデ、山側をオモテデとよぶ。地名は産土神の白比古しらひこ神社の神体が当地の浜で取上げられたことによると伝える(「由来書」白浜区有文書)。天正八年(一五八〇)から長連竜領で、文禄二年(一五九三)の鹿島半郡高帳に村名がみえ、高三七四石余。正保郷帳では南の深見ふかみ村と一括して高付される。


白浜村
しらはまむら

[現在地名]河内町白浜

さんノ岳山系の裾野にあり、西は有明海に面する。北は玉名たまな郡小田手永の小天おあま(現天水町)、東は野出のいで村、南は船津ふなつ村に接する。慶長年間(一五九六―一六一五)に記された栗崎完国・牛嶋公縄覚書写(牛島文書)に建久九年(一一九八)の年号があり、「池神之内白浜」とある。慶長一三年の検地帳に田方一町二反五畝、分米一五石六斗余、うち二升二合が永荒、畠方二九町二反二畝余、分米一四八石三斗余、うち九斗九升三合は永荒で、家数三四、男一一・女二〇、牛三とある。寛永一二年(一六三五)の地撫帳によれば、当竿前は二〇町八反余で、ほかに新地一反五畝余・野開四反八畝余があった。


白浜村
しらはまむら

[現在地名]津島市白浜町

高台寺こうたいじ村の西、百町ひやくちよう村の東に挟まれた南北に細長い村である。文禄四年(一五九五)八月三日の豊臣秀吉寺領寄進状(名古屋市政秀寺蔵)に「尾州海東郡しらはま村」とあるのが文献上の初見。弘化四年(一八四七)村絵図(徳川林政史蔵)によれば、集落は村域のほぼ中央にあって悪水落ちが村域を南北に縦貫し集落を東西に分断している。「府志」記載の真言宗智山派の光明こうみよう寺と守護社の神明・八幡・牛頭天王三社が集落北端の東部に、真宗大谷派の蓮光れんこう寺が集落北端の西部に記されている。


白浜村
しらはまむら

[現在地名]麻生町白浜

北浦湖岸にあり、西は岡平おかだいら村。中世は相賀おうが郷に属し(新編常陸国誌)、戦国末期まで相賀氏の支配地であったが、江戸時代は府中(石岡)藩領と旗本領に分割された。文政一一年(一八二八)の常州行方郡最寄四拾三ケ村組合議定連印(関戸家文書)には、松平播磨守領分二五三石余、松波貞太郎知行所一〇三石余とある。幕末には石岡藩領分三〇〇石余、松波恒太郎知行所一一三石余(各村旧高簿)


白浜村
しらはまむら

[現在地名]松浦市志佐町しさちよう 白浜免しらはまめん

志佐村の西部に位置し、北は海に面する。中世は志佐浦のうちで、永徳四年(一三八四)二月二三日の下松浦住人等一揆契諾状(山代文書)に「しさのしらはま白浜後家代弘」とみえ、当地を拠点とする白浜氏が下松浦の一揆に加わっている。同日の下松浦住人等一揆契諾状案(青方文書)にも同様にみえる。江戸時代は平戸藩領で、志佐筋に属する。正保国絵図に白浜村とあり、高三二六石余。明暦二年(一六五六)の田方帳抜書では志佐里しささと村内に白浜免とみえる。


白浜村
しらはまむら

[現在地名]佐賀町白浜

佐賀村の南の海岸部にあり、井田いだ(現大方町)の小村。郷帳類では井田村に含まれ名はみえないが、「西郡廻見日記」は井田村の小村の一として村名をあげ、本田高七三石余、新田高七石余、家数一二、人数六〇、猟銃四とし、「右村地方鮮、専山手働、塩焚等也」と記す。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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