奈良時代の渡来系の官人。百済王敬福とも。百済の義慈王の子禅広は,舒明朝に母国滅亡後百済王の号を賜った。敬福はその禅広の孫郎虞の第3子。738年(天平10)に陸奥介とみえ,翌年正六位上より従五位下に昇る。743年陸奥守,746年上総守となるが,同年再び陸奥守となる。749年(天平勝宝1)大仏の鋳造が成って塗金料が不足したときに,陸奥国内小田郡より出た黄金900両を献じ,聖武天皇の寵愛を受けて従三位に昇り,翌年宮内卿となる。のち常陸,出雲,伊予,讃岐などの国守を歴任するが,その間757年(天平宝字1)には橘奈良麻呂の変で捕らえられた人々の拷問にあたった。また764年には外衛大将とみえ,孝謙先帝の命により淳仁天皇を捕らえている。翌年には称徳天皇の紀伊行幸に従い,帰途河内弓削寺で百済の舞を奏した。766年に刑部卿従三位,歳69で没している。性放縦にしてこだわらず,すこぶる酒色を好み,政事の量を備えたと伝える。
執筆者:佐藤 信
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