監獄法(読み)カンゴクホウ

デジタル大辞泉 「監獄法」の意味・読み・例文・類語

かんごく‐ほう〔‐ハフ〕【監獄法】

収監の手続き、拘禁の形式、作業・教誨きょうかい・接見など、自由刑の執行方法や死刑の執行などについて規定した法律。明治41年(1908)施行。平成19年(2007)に廃止。平成18年(2006)から刑事収容施設法が施行されている。
[補説]平成18年(2006)に刑事施設の管理運営と受刑者の処遇について規定した刑事収容施設法が施行され、「監獄」「仮出獄」等の用語が「刑事施設」「仮釈放」等に改められたのに伴い、監獄法は受刑者を除く未決拘禁者等の処遇を規定する法律として「刑事施設ニ於ケル刑事被告人ノ収容等ニ関スル法律」に改称された。平成19年(2007)、刑事収容施設法の一部改正により未決拘禁者等に関する規定も同法に統合され、監獄法は廃止された。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「監獄法」の意味・わかりやすい解説

監獄法
かんごくほう

広義では、刑事(既決・未決)拘禁の内容と形式、とくに自由刑執行のあり方を規定した法律。ただし、自由刑中心の刑罰体系が確立されたのは、近代、日本では明治以降のことで、歴史的には、むしろ、未決拘禁のあり方が問題になる。狭義では、1908年(明治41)に制定され、2007年(平成19)に廃止された「監獄法」(明治41年法律第28号。2006年5月24日~2007年5月31日の題名は「刑事施設ニ於ケル刑事被告人ノ収容等ニ関スル法律」)をいう。現行の「刑事収容施設法(刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する法律、平成17年法律第50号)」の前身となった法律である。

[須々木主一・石川正興]

沿革

日本における最初の監獄法は、1872年(明治5)の「監獄則」・「監獄則図式」である。監獄権正(ごんのじょう)小原重哉(おはらしげちか)(1836―1902)が香港(ホンコン)・シンガポールのイギリス植民地行刑を視察してこれを作成した。その緒言には「獄ハ人ヲ仁愛スル所以(ゆえん)ニシテ人ヲ残虐スル者ニ非(あら)ス。人ヲ懲戒スル所以ニシテ人ヲ痛苦スル者ニ非ス。刑ヲ用ルハ已(やむ)ヲ得サルニ出(い)ス。国ノ為(ため)ニ害ヲ除ク所以ナリ」とあって、東洋的な仁愛思想、「刑期于無刑(刑は刑なきを期す)」の思想に根底を据えている。その後、形式のうえでは、フランス・ベルギーの獄制にならって1881年に新「監獄則」が、やがて、プロシア内務省監獄規則を参考にして1908年に「監獄法」が制定された。いわゆる文明開化の時代にふさわしく、当時の刑政関係者にキリスト教の影響が濃厚にみられるが、第二次世界大戦直後の1946年(昭和21)1月の行刑局長通牒(つうちょう)「監獄法運用ノ基本方針ニ関スル件」の冒頭には、抽象的個人的思議とこれによる偏見を排す、として、前記の「監獄則」緒言の一部が引用され、これこそが「我ガ旧(ふる)クシテ賢明ナル行刑精神ノ伝統ナリ」と、その再確認が宣言された。

[須々木主一・石川正興]

監獄法の規定

「監獄法」の成立は、刑事政策上、画期的なできごとであった。それは13章75条からなり、監獄の種類、収監(人を監獄に収容すること)の手続、拘禁の形式、戒護(刑務所内の保安を維持すること)、刑務作業、教誨(きょうかい)(刑務所などで被収容者の健全な宗教心・道徳心を養うこと)・教育、接見・信書、賞罰等に関する大枠を定め、受刑者ばかりでなく、未決拘禁者、死刑確定者労役場留置者などの生活全般を規律するとともに、死刑の執行に関しても規定していた。

 大正時代後半から日中戦争勃発(ぼっぱつ)(1937)に至る20年ばかりの間は、いわゆる「教育刑」論の華やかな時代である。そこで「新行刑トリオ」といわれた「仮釈放審査規程」(1931年5月)、「少年行刑教育令」(1933年9月)、「行刑累進処遇令」(同年10月)が公布された。これに続く第二次世界大戦時の非常体制を経て、敗戦、そして新憲法のもとでも、「監獄法」そのものに大きな変更はなかった。仮出獄の場合の警察監視に関する第57条は削除されたが、これは、警察監視を廃止して保護観察に変える趣旨で、問題を1949年(昭和24)の「犯罪者予防更生法」のなかに前向きに吸収するというだけのものである。戦後改革のうちで最重要事項は宗教教誨制度に関することであろう。政教分離の原則に従い、明治以来の官吏であった教誨師による宗教教誨が制度的に廃止され、活動は民間の宗教団体に委ねられた。しかし、そのような事態も「監獄法」の教誨規定の文言に修正を要するものではなかった。アメリカ矯正思想の強い影響は「分類制度」の導入に形をとって表れる。1948年には「受刑者分類調査要綱」が制定され(1972年「受刑者分類規程」に改正)、その結果、受刑者一人一人の必要に応じた「処遇の個別化」を目ざす分類処遇のための施設の特殊化が進むとともに、人間行動に関する実証的な諸科学の知見に基礎をおいた、いわゆる「処遇の科学化」のための態勢が整えられていった。

[須々木主一・石川正興]

監獄法改正に向けての動き

昭和20年代は過剰拘禁の時代、昭和30年代は被収容者の不服申立て激化の時代である。1970年代にあたる昭和40年代の中ごろから昭和50年代にかけては、反権力・反監獄闘争が盛んであった。1966年(昭和41)の監獄法施行規則の一部改正をはじめ、昭和40年代は一般処遇の改善向上と矯正処遇の充実強化の時代であり、昭和50年代は、戦後行刑の総決算の時代であった、といわれている。すなわち、1976年には法制審議会に対する監獄法改正の諮問(しもん)があり、1982年には刑事施設法案が作成されて、留置施設法案とともに国会に提出されることとなった。この刑事施設法案は、従来「監獄法」の枠内で展開された行刑の実体をより体系的に成文化しようとするものと理解された。日本の刑政は世界的にも正当に評価されるべきものとされているが、「監獄法」を読むだけでは行刑の実像がみえてこない。そのようなことでは、行刑の社会化(行刑における一般社会との連携)という実務側の努力も、人々に断片的な印象を与えるにとどまる。しかし、これら二つのいわゆる「抱き合わせ法案」については政治的批判が厳しかった。「施設管理法から被拘禁者処遇法へ」という目標が達成されていない、留置施設法案は代用監獄(未決拘禁を拘置所ではなく警察の留置場で行うこと)制度を固定化させるものである、といわれた。これらの法案は、1983年のロッキード事件による国会解散にまぎれて廃案になった。先の法案に若干の手直しをした1987年法案、これと同一の1991年(平成3)の法案は継続審議、1993年の法案は審議未了のまま廃案となった。

[須々木主一・石川正興]

行刑改革と監獄法廃止

1908年(明治41)に制定された監獄法は、2005年(平成17)にほぼ1世紀ぶりに全面改正されることになった。その大きな契機となったのは、2001年から2002年にかけて名古屋刑務所で相次いで起こった、刑務官の暴行による受刑者の死傷事件である。2003年3月には、行刑運営に関する改革のためには、国民の視点にたって幅広い観点から検討することが必要であることから、行刑分野の専門家のみならず、さまざまな分野の民間有識者からなる「行刑改革会議」が設置された。同会議は早くも同年12月に「行刑改革会議提言~国民に理解され、支えられる刑務所へ~」を公表し、監獄法を全面改正する方針を示した。

 これを受け、法務省は法案作成作業に着手。しかし、「代用監獄(現在は「代用刑事施設」)」制度への反対が予想されたために未決拘禁者等の処遇に関する規定の改正は後回しにし、まずは受刑者の処遇を中心として監獄法の改正をすることにした。その結果、2005年5月25日に「刑事施設及び受刑者の処遇等に関する法律(受刑者処遇法)」が公布された(施行は1年後の2006年5月24日)。同法により、長い間「監獄」という名称でよばれてきた施設は「刑事施設」と改称されたほか、たとえば「収監」は「収容」、「在監者」は「被収容者」、「監房」は「居室」、「監獄官吏」は「刑務官」、「仮出獄」は「仮釈放」へとそれぞれ改められた。また、「監獄法」の題名は「刑事施設ニ於ケル刑事被告人ノ収容等ニ関スル法律」と改称され、未決拘禁者等の処遇に関する部分はこれに委ねられることになった。

 受刑者処遇法成立後、法務省は積み残された未決拘禁者等の処遇に関する法案の作成に着手。2006年6月には「刑事施設及び受刑者の処遇等に関する法律の一部を改正する法律」が成立した。この法律により、未決拘禁者・死刑確定者についての規定は受刑者処遇法に統合されるとともに、受刑者処遇法の題名も「刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する法律(刑事収容施設法)」に変更された(ただし、刑事収容施設法の施行は2007年6月1日)。こうして、約1世紀にわたって日本の行刑を律してきた「監獄法」は、幕を閉じることになった。

[須々木主一・石川正興]

『朝日新聞社会部著『代用監獄』(1992・朝日新聞社)』『海渡雄一編『監獄と人権――制度化された隔離と暴力 その改革をめざして』(1995・明石書店)』『刑事立法研究会編『入門・監獄改革』(1996・日本評論社)』『刑事立法研究会編『代用監獄・拘置所改革のゆくえ――監獄法改正をめぐって』(2005・現代人文社、大学図書発売)』『重松一義著『日本獄制史の研究』(2005・吉川弘文館)』『鴨下守孝編著『新行刑法要論』全訂2版(2009・東京法令出版)』『法務省矯正研修所編『成人矯正法』(2009・財団法人矯正協会)』

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百科事典マイペディア 「監獄法」の意味・わかりやすい解説

監獄法【かんごくほう】

監獄における自由刑の執行に関する基本的事項を定めた法律(1908年)。行刑理念の変化や戦後の国際的な刑事準則の影響もあって,被収容者の権利保護と改善・社会復帰理念の徹底を図る見地から全面改正作業が行われ,〈刑事施設法案〉および〈留置施設法案〉(いわゆる拘禁2法案)が1982年に国会に提出されたが,代用監獄制度の温存を図るものだとする強い批判があり,審議未了で廃案。その後,日本弁護士連合会の意見なども容れた修正案が1987年に再び国会に提出され,継続審議中であったが,1993年に審議未了のまま,再度廃案となった。ようやく2005年〈受刑者処遇法〉が成立,監獄法は抜本的に改正され,法律名も〈刑事施設に於ける刑事被告人の収容等に関する法律〉と改められた。
→関連項目教誨師刑務所

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「監獄法」の意味・わかりやすい解説

監獄法
かんごくほう

明治41年法律28号。収監,拘禁,戒護,教誨(きょうかい)・教育,接見・信書,賞罰,釈放など特に自由刑の執行および行刑処遇に関連する事項を規定した。立法当時の行刑思想を反映し,国と受刑者の特別権力関係を基礎として立法されたため,受刑者の地位と権利保護の点で不十分であるなどと指摘されていた。1976年以来,法制審議会において審議が行なわれ,1980年に全面改正の骨子となる要綱が法務大臣に答申され,2005年「刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する法律」(平成17年法律50号)が成立した。2007年廃止。

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世界大百科事典(旧版)内の監獄法の言及

【監獄】より

…刑事に関する身柄拘禁を行う施設の総称として,明治初期以来,用いられてきた語。現在では,1908年公布の監獄法以下の諸法令が,その管理運営や被拘禁者の処遇などを定める。自由刑の執行を行う懲役監・禁錮監・拘留場と,死刑囚や刑事被告人・被疑者などを拘禁する拘置監とがある。…

【刑務所】より

…新政府の下で,初めは,律令制復活による徒刑(各府藩県管轄の徒場で執行)が導入された。やがて,イギリス,フランス,ドイツといったヨーロッパ諸国に学び,国立の集治監(1879年の宮城と東京に始まり,北海道などに増設)や,少年等の改善矯正のための懲治場(1881年の監獄則で導入,1907年に廃止)の時代を経て,1908年の現行監獄法制定に至っている。
[日本の刑務所の種類]
 少年を成人から分け,男女を分離することは,前述の18世紀の監獄改良運動以来の要請である。…

※「監獄法」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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