字義どおりには刑罰の執行全般を指すが,犯人の身柄拘束に限定し,罰金など財産刑の執行を含めないのが一般的である。犯人の身柄ということで,死刑囚や未決囚をも含めて,刑事施設における被拘禁者の処遇一般を指すこともあるが,これは刑の執行としての拘禁とそうでないものとの混同であり,特に無罪の推定もありうる未決拘禁者の法的地位に反するという批判がある。多くは,自由刑について,しかも,刑期の計算や執行の順序,執行停止といった刑式的・手続的側面(刑の執行)Strafvollstreckungとは区別して,その実質的な刑罰内容具体化の側面,とりわけ再犯防止を目ざす犯罪者の改善処遇・社会復帰を強調する場合に行刑の語が用いられる。この意味での行刑Strafvollzugは,第2次世界大戦後は,アメリカ法制の影響もあり,矯正correctionとも呼ばれる。矯正には,保護処分である少年院処遇なども含まれ(少年矯正),おおむね施設内処遇として,社会内処遇たる保護観察を中心とする(更生)保護と対比される。矯正と保護の上位概念として犯罪者処遇があり,改善矯正・社会復帰の点から,施設拘禁の限界・弊害・背理性がいわれ,通常の社会生活を送らせつつカウンセリング等のソーシャルワークによって犯罪者の改善を目指す社会内処遇が強調される(〈施設内処遇から社会内処遇へ〉)。以上のような伝統的な理解に対してまず,自由刑の執行方法としても,昼間は施設から出て通常の職場で働く外部通勤や,1週間分の刑期を週末拘禁ですませることなどが認められると,自由刑を施設拘禁に限定することは不自然となる。また,自由刑の持ちうる改善効果への疑問が広がり,改善処遇を強制すること,さらにはそもそも受刑者を改善の必要な犯罪者とみなすことが妥当かどうかが問われると,自由刑を犯罪者の改善矯正処遇と直結させることが困難視されもする。こうして〈行刑〉は,端的に〈自由刑の(具体化としての)執行〉を意味することになる。そして外部通勤や外部通学,所用のために刑務所を離れる数日間の外泊,さらには施設内処遇と社会内処遇を連結させる必要的仮釈放や中間施設などが議論され,自由刑の刑罰内容が縮小するにつれて,仮釈放中の生活のみならず,保護観察中のものや,現在イギリスなどで広がりつつある地域社会奉仕命令community service orderのようなものも含めて行刑のもとに構想することができるようになってくる。
都市に集まる浮浪者群を施設に収容して働かせることが,16世紀半ばから終りにかけて,イギリスのロンドンや,オランダのアムステルダムで始まった。これはプロテスタンティズムと重商主義の影響を背景にヨーロッパ各地に広がった。この懲治場house of correctionは,浮浪者を犯罪者予備軍として対象にする点で,救貧対策上のワークハウスwork houseとは起源を異にしていた(イギリスの1609年法は前者に対して単なる改善的処遇のかわりに刑罰的懲戒を権限づけた)。しかし,やがて両者は融合し,軽罪者をも収容しつつ旧来の牢獄jailとも融合していった。16,7世紀から隆盛をみたガレー船漕奴刑と植民地流刑は,死刑をへらし,後には国内収容施設を必要とすることで自由刑の出現に寄与したが,受刑者使役の伝統をも自由刑に引き継いだ。また,死刑に代わる拘禁刑は,13世紀ごろから僧職者に対して教会裁判で言い渡されており,この聖職特権が聖書を読める者ということで一般犯罪者にも拡大し,そこでは悔悟による改善が目ざされた。以上の刑罰としての拘禁の進展は,死刑を中心とした専制的・恣意的な刑罰制度に対する啓蒙思想家による批判(ベッカリーア《犯罪と刑罰》(1764)など)にも支えられ,啓蒙君主による立法を皮切りに,18世紀から19世紀にかけての刑法典では自由刑が刑罰の中心となった。例えば,威嚇による特別予防を論難し,罪刑法定主義を主張して近代刑法の父といわれるP.J.A.vonフォイエルバハの手になる1813年のバイエルン刑法典では,定期刑たる自由刑が中心的刑罰となっている。このような自由刑の執行については,新大陸アメリカで発展したものをヨーロッパ諸国が輸入することとなる。
アメリカでは,クエーカー教徒ウィリアム・ペン(1644-1718)の昔から,本国イギリスの苛酷な刑罰にかわるものとして拘禁刑が主張されていたが,1720年ごろペンシルベニア州で,独房でもっぱら神との対話による改善を目ざす厳正独居の試みが始まった。独立後,重労働を伴う拘禁刑が死刑にかえられることとなり,73年開設のウォルナット街ジェイルは,89年から重罪囚の拘禁を始め,翌年の重罪者用居房の増設もあって,懲治監penitentiaryとして知られるようになった。他の諸州でも自由刑が死刑に代わったが,収容者の増加により従来の地方監獄jailでは不十分となり,18世紀から19世紀にかけて州立刑務所prisonの建設が相次いだ。ペンシルベニアでも1818年のものにつづいて28年に西懲治監,翌年に東懲治監が開設され,その独房方式はペンシルベニア制(ないしフィラデルフィア制)として他州の注目をひいた。ニューヨークでも1797年にニューゲート刑務所,1816年にはオーバーン刑務所を開設し,厳正独居を含む体制を実施したがうまくいかず,24年にオーバーン制として知られる,昼間は雑居で沈黙制の下に作業,夜間は独居の体制を実施した。この二つの方式の優劣は数年にわたって争われたが,アメリカ合衆国では産業資本の要請に対して請負制(囚人労働力の賃貸)でこたえることのできたオーバーン制が勝利を占め,ペンシルベニア州でも19世紀半ばには厳正独居はすてられた。これに対し,アメリカ合衆国に数次の視察団を派遣したヨーロッパでは,当時,地方監獄で雑居混禁(雑居房)による囚人間の相互汚染がまんえんしていたこともあり,独居拘禁が受け入れられ,42年のイギリスのペントンビルなど独居を中心とする監獄が主流を占めた。以上の自由刑は,いずれも死刑に代わるものとして施設拘禁だけでは不十分とされ,重労働をその刑罰内容として有し,賃貸制などによる囚人労働力の搾取状況が一般化したが,19世紀に入って民業圧迫論に基づく刑務作業の排斥運動がおこるに及んで,踏み車treadmillやクランクといった経済的意味のない,苦痛を与えるためだけの空役までも実施された。懲らしめによる威嚇と,規律による行動の外的統制の理念がそれを支えた。
19世紀後半には,アメリカの保護観察を伴った宣告猶予であるプロベーションprobationとそれに学んだヨーロッパ大陸の執行猶予制度が,受刑者を改善するよりも悪風に感染させるだけであると非難されていた短期自由刑の弊害を避けるために発展し,またオーストラリアなどの流刑地で行われた累進処遇制・仮釈放制や,保護観察を伴った仮釈放であるパロールparole,あるいは早期釈放を監獄内規律維持に使う善時good time制が拘禁自体の回避策として発展した。以上の実刑回避にとどまらず積極的に犯人改善を目ざしての処遇体制も,70年のシンシナティ宣言のころから明確になり始める。77年エルマイラ矯正院で少年に対して不定期刑が導入され,これが20世紀初頭にかけて一般化しつつ全米各州に広がるなど,少年行刑が行刑改革の水先案内を務める状況がみられた。ヨーロッパ大陸では,F.vonリストなど新派理論による特別予防主義の高調もあったが,不定期刑による犯罪者対策は拒否され保安処分によって刑罰を補う二元主義が定着した。また人道主義の思潮もあって19世紀末から20世紀にかけて先述の懲罰的苦役は否定され,刑務作業は経済的に意味があり犯人の社会復帰にも役立つべしとする有用作業の原則が確立した。
20世紀には,T.M.オズボーンによる囚人自治制の試みがあり,またカリフォルニアなどの諸州では,積極的に犯人改善を目ざした心理療法や集団療法等の手法が開発され,科学主義を標榜して犯人一人一人の必要に応じた個別処遇を目ざす分類処遇が,それまでの画一的機械的に受刑者の自由領域を広げていって改善釈放につなげる累進制に取って代わる様相を示した。国連による被拘禁者処遇最低基準規則(1957採択)など人権保障の手当てや,施設内処遇から社会内処遇への転換も主張され,高い塀や厳重な施錠といった拘禁確保のための物理的設備を伴わない開放処遇や,施設拘禁とパロールとの中間処遇も発展した。一方では1960年代には,アメリカの公民権運動,反戦運動,学生の反乱とともに体制側の権威失墜もあり,刑務所体制に対しても従来の受刑者訴訟によるものや突発的暴動のみならず,組織的な挑戦が試みられ始めた。1966年のスウェーデンにおける囚人組合KRUMの結成は北欧諸国に広がり,70年代にはアメリカ合衆国やイギリスでも同様の動きが出現し,改善効果への実証的研究に基づく疑問も提起されて,受刑者に対して,種々の権利制限を伴いながら積極的に矯正処遇を実施していく自由刑の改善理念は後退した。これはアメリカでは,犯罪者を基本的には病人と同視する,従来の〈医学モデル〉に対立して主張され出した,刑事司法・犯人処遇についての〈正義justiceモデル〉に支えられ,カリフォルニアなどいくつかの州における不定期刑の廃止やパロールの廃止・変容などに具体化したが,犯罪情勢の悪化を背景に,北欧諸国のように改善理念の後退が拘禁刑の縮小と名目的非難による一般予防への転換には結びつかず,むしろ対症療法的な隔離・排害と威嚇・抑止のための拘禁拡大を伴い,過剰拘禁など新たな問題を生じさせている。
明治以前の行刑は,死刑を中心としつつも,人足寄場や徒刑場など近代的自由刑の萌芽とみられるものも存在した。明治新政府の仮刑律(1868)は,死,流,徒,笞(杖)刑を採用し,旧幕期の追放刑をすでに若干の藩で律の伝統から採用されていた徒刑に代えた。新律綱領(1870)も基本的にこれを維持し笞,杖,徒,流,死の五刑を定めた。また,北海道を予定していた流刑も徒刑に転換されるなど,一定期間の使役を内容とする徒刑が自由刑の中心として認められ,その実施は各府藩県管轄の徒場にまかされた。1871年(明治4)には刑部省の小原重哉によるホンコン,シンガポールのイギリス獄制視察が行われ,翌年の〈監獄則幷図式〉に結実する。同年,それに先立ち,西洋法を参照して制定された懲役法により,笞・杖が短期自由刑たる懲役に代えられていたが,73年には先述の徒場は懲役場と改称され,同年の改定律例では,流・徒刑も刑期はそのままに(ただし終身が加わる)懲役に一本化された。先の小原監獄則は,従来用いられていた囚獄の語を監獄に変え,独房制を導入し,未決・既決,男女を分けるなど進歩的であったが,財政的理由等から本格的実施をみないまま効力を停止された。監獄事務は73年に司法省から内務省に移管されていたが,西南戦争等による受刑者激増を契機に,各府県の懲役場とは別に79年内務省直轄の集治監が宮城県と東京府に開設された。
1880年の旧刑法はフランス法に範をとり,士族の特別扱いを廃し,犯罪を重・軽・違警罪に三分し,それぞれに複雑な自由刑を配したが,イギリス,ドイツにならって仮出獄をも導入した。翌年の監獄則は,自由刑の執行につき,拘留場,懲役場(懲役,禁錮),集治監(徒刑,流刑,禁獄)を定め,ほかに未決監たる監倉と裁判所・警察署に付属する留置場,および幼年者等を入れる懲治場をおき,相互の区別を建前とした。同年には樺戸集治監の開設など北海道開拓のための囚人利用が始まり,旧刑法下の自由刑長期化もあって,鉄鎖でつないだ外役や,大規模な刑務所工場の出現もみられた。獄内の規律維持と再犯防止に向けて懲戒主義が強調され,87年には,数ヵ月ではあったが,兵庫,大阪で,イギリスの空役にならった罪石も実施された。89年,ドイツの監獄学を学んだ小河滋次郎による改正監獄則が成り,国立監獄官練習所におけるゼーバハの講義等をとおして,規律中心のドイツ式監獄運営が組織化された。99年には不平等条約の改正もなり,また,そのころには懲戒・収奪主義の刑務作業にも転換の動きがみられた。翌年には監獄費用の国庫支弁,内務省から司法省への再移管があり,1903年すべての監獄は国の直轄となり,全国的見地から幼年監や女監が指定された。
1908年,刑法の施行に伴い,監獄法,同施行規則の現行体制が発足した。24年には,行刑刷新の下,監獄を刑務所,典獄を刑務所長など用語の改正が行われ,また,33年には,受刑者の発奮努力による改悛を掲げて,4級から1級に至る進級に応じて細かな特典の増加と自由の拡大を規定する行刑累進処遇令が制定された。これらを経て,多くの受刑者を軍需工場や南洋諸島で使役した戦時行刑につらなっていく。戦後,新憲法下で監獄法改正の動きもみられたが実現せず,施行規則の改正(新聞閲読の禁止や原則としての丸刈りの規定を削除した1966年のものが有名)などによりつつ,分類処遇や開放的処遇の導入がなされている。72年の新分類規程では,従来の収容分類に加えて,処遇分類が定められ,職業訓練を必要とする者V級(1994年末受刑者3万7400人ほどの3.8%),教科教育を必要とする者E級(1.2%),生活指導を必要とする者G級(63.4%),専門的治療処遇を必要とする者T級(2.1%),特別な養護的処遇を必要とする者S級(3.9%),開放的処遇が適当と認められる者O級(1.4%),経理作業に適格と認められる者N級(17.5%)の7種が置かれている。開放的処遇は,1960年ごろから交通事故死傷事件の禁錮受刑者を中心に試みられてきているが,一般受刑者を対象に,また外部の作業場に泊まり込んで行われるものなどもある。刑務作業は以上のほか,多くは刑務所内の工場で物品製作や委託作業を行うが,炊事洗濯など施設維持のための経理作業も重要なものとされている。いずれも報酬はなく,恩恵的な少額(月3000円ほど)の賞与金が支給されるに止まる。76年には行刑の近代化,国際化(国際水準を達成すること),法律化を掲げて現行監獄法の改正作業が具体化し,法制審議会に諮問がなされた。80年〈監獄法改正の骨子となる要綱案〉が答申され,82年,87年,91年に〈刑事施設法案〉と警察庁からの〈留置施設法案〉などが国会に上程されたが,いずれも廃案となった。代用監獄の永久化とともに原則的な権利制限を裁量で緩和するなど,その具体的内容には批判もある。受刑者を懲らしめることを主眼とするような刑務所生活をできる限り緩和し,国連の被拘禁者処遇準則などに沿って行刑を社会化することも徐々に進展しつつあるが,まだ十分ではない。
→刑罰 →牢屋
執筆者:吉岡 一男
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
広義では、刑務所・少年刑務所・拘置所で行う自由刑・死刑・勾留(こうりゅう)などの執行その他の監獄業務の執行をいい、狭義では、自由刑にかかわる監獄業務、とくに受刑者の処遇に関する監獄業務の執行をいう。行刑は司法的側面と行政的側面とに区別される。司法的側面とは、判決で確定された刑を検察官の指揮・監督により執行することをいい、法的安定性の理念によって指導されるべき側面である。従来は、特別権力関係の理論によって、国家と受刑者は支配―服従の関係にあり、受刑者に与えられる自由は国家の恩恵であると考えられた。しかし現在は、両者の関係を法律上の権利・義務関係としてとらえ、拘禁(懲役の場合定役の賦科も)に伴う自由制約の限界(国家刑罰権の範囲)を法律によって定めて、受刑者の法的地位を明確にする努力が払われている。これに対し行政的側面とは、許容される自由制約の枠内で目的活動を遂行するという合目的性の理念によって指導されるべき側面であって、とくに受刑者の改善更生のために、医学・心理学・社会学などの科学的技術の導入の必要性が強調される。戦後はとくに行政的側面が重視され、行刑にかえて「矯正」という語も広く用いられている。
[須々木主一]
犯罪者および非行少年の心身の障害を除去し、社会生活に適応させるようにすることである。おもに施設内処遇をさすが、少年院、少年鑑別所、婦人補導院における処遇を含む点で、行刑よりも広い概念である。行刑においては、合目的性の要請がしばしば法的安定性の要請と対立し、その枠を破りがちなので、最近では行刑の司法化ということが説かれており、イタリア、フランスなどでは行刑監督判事の制度を採用している。なお、アメリカ諸州では、不定期刑を採用し、制度的に合目的性の理念を一貫させてきたが、科学的技術による改善への疑問がおこり、最近では法的安定性の枠を重視しようとしている。
[須々木主一]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…被疑者,被告人や受刑者を収容する刑事施設の総称として,大正期から,監獄に換えて用いられている語。1947年の法務省設置法では,刑事施設として,刑務所,少年刑務所,拘置所の3種が規定されており,そこでいう刑務所は主として受刑者を収容して自由刑の執行を行う施設(行刑施設)とされる。上記の3種に,少年院,少年鑑別所,婦人補導院を加えて,矯正施設ともいう。…
※「行刑」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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