稲瀬川(読み)いなせがわ

精選版 日本国語大辞典 「稲瀬川」の意味・読み・例文・類語

いなせ‐がわ‥がは【稲瀬川】

  1. 神奈川県鎌倉市のやや西方を流れる小川。笹目ケ谷を源流として長谷から由比ケ浜に注ぐ。水無瀬(みなのせ)川の音転したもの。

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日本歴史地名大系 「稲瀬川」の解説

稲瀬川
いなせがわ

高徳こうとく(鎌倉大仏)北方大谷おおやとを源流とし、江ノ島電鉄長谷駅の東傍から由比ガ浜に注ぐ。全長約二千四〇〇メートル。鎌倉初期には鎌倉の西境となっていた。別に水無瀬みなのせ川とも称したといい、「万葉集」巻一四に収める「まかなしみさ寝に吾は行く鎌倉のみなのせ川に潮満なむか」は、当川をさすという。稲瀬とは水無瀬をなまったものともいわれ、「八雲御抄」に相模の名所として「みなのせ河」があげられている。

源平盛衰記」治承四年(一一八〇)八月の由比ガ浜・小坪合戦のくだりに「畠山次郎は五百余騎にて、由比浜、稲瀬河の耳に陣を取り、赤旗天に輝ける」とみえ、また「吾妻鏡」に散見する。治承四年一〇月一一日条には北条政子が伊豆阿岐戸郷から鎌倉に入る際、日次が悪いため稲瀬川川辺の民家に止宿したこと、養和元年(一一八一)七月二一日条には源頼朝の命をねらった左中太常澄を処刑するため片瀬かたせ川に向かう途中、遠藤武者を稲瀬川川辺に遣わしたこと、元暦元年(一一八四)八月八日条には源範頼が平家追討のため鎌倉を進発した際、頼朝は稲瀬川川辺に桟敷を構えこれを見物したこと、吉川本「吾妻鏡」文治元年(一一八五)八月三〇日条では頼朝が父義朝と鎌田正清の首級を迎えて菩提を弔おうとしたとき、文覚門弟の首に遺骨を掛けさせて来鎌したので、頼朝は自らこの川辺に出迎えて受取ったこと、承久三年(一二二一)五月二一日条には承久の変で鎌倉を進発した北条泰時がいったん藤沢左衛門尉清近の稲瀬川宅に止宿したこと、寛喜二年(一二三〇)二月三〇日条には鎌倉中が騒動し、郎従を引連れ浜に向かった尾藤景綱ら三名の後に数百騎がつき従い稲瀬川川辺に至ったこと、嘉禎三年(一二三七)一一月七日条には洪水のため稲瀬川川辺の民家一〇余軒が流され、二人の下女が漂没したこと、などが記されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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