空孔理論(読み)くうこうりろん(英語表記)hole theory

改訂新版 世界大百科事典 「空孔理論」の意味・わかりやすい解説

空孔理論 (くうこうりろん)
hole theory

電子の相対論的波動方程式エネルギーが負の解をもつが,その解が引き起こす困難を避けるために,P.A.M.ディラックによって提出された理論空孔理論という。ディラックは1928年に相対論的共変の要請を満たす波動方程式(ディラック方程式)を発見した。これはスピン1/2の粒子を記述するので電子の基礎方程式とみなせるかに思われたが,エネルギーが負となる解をもつ点が問題であった。自由電子の場合,運動量がp,エネルギーがとなる解がある(cは光速度,m0は電子の質量)。この状態にある電子については,その速度の向きに力を加えて仕事をしてやると,エネルギーは増すはずだから運動量の大きさは減るほかない。これは運動量が力と逆向きで,したがって速度と逆向きであることを意味している。正エネルギーの電子もポテンシャルの高い壁に出会うと負エネルギーのふるまいに変わることになる(クラインパラドックス)。また水素原子は電子が電磁場と相互作用してたちまち負エネルギーの準位におちてしまうから安定に存在することができないことになる。空孔理論は,こうした困難を避けるためにディラックが30年に提出したもので,われわれが真空と呼ぶものは空虚ではなく,すべての負エネルギー準位に電子が充満して〈負エネルギー電子の海〉ができている状態だとする。そこに正エネルギーの電子がきても,これはフェルミ粒子だからパウリの原理に縛られて,すでに占拠されている負エネルギー状態に落ちることはできない。こうして世界の安定性が保証されるのである。他方,正エネルギー電子は負エネルギー電子の海の中を走っても散乱されず,何ものにも出会わなかったかのように慣性法則に従って走り続けることがエネルギーと運動量の保存則から証明される。光についても同様である。しかしエネルギーないし運動量を吸い取る物質が介在すれば,高エネルギーの光子(γ線)が負エネルギーの電子を正エネルギーの準位にたたき上げることも起こる(図)。こうして負エネルギー電子の海にできた空孔は,電子の陰電荷が欠けたので陽の電荷に見え,エネルギーも正で運動量は速度と平行に見えて,その質量は電子と同じである。つまりディラック理論は電子と電荷の符号だけが違う陽電子の存在を予言する。上に述べた光子による電子のたたき上げは,すなわちγ線により陰-陽電子の1対がつくりだされることである(電子対生成,あるいは電子対創成という)。陽電子の存在は32年にC.D.アンダーソンが宇宙線の霧箱写真の中に飛跡を発見,33年P.M.S.ブラケットらの詳しい分析で確認された。エネルギーの物質への転化の最初の例である電子対生成はH.ベーテとW.ハイトラーまた仁科芳雄と朝永振一郎,坂田昌一らにより頻度が計算され,ジョリオ・キュリー夫妻らの実験で確証された。ディラックの空孔理論は真空を豊富な実体とすることにより電子の量子力学を本質的な多体問題に変え,電子の周囲の真空の分極など発散の困難と呼ばれる新たな問題を引き起こすことになる。
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百科事典マイペディア 「空孔理論」の意味・わかりやすい解説

空孔理論【くうこうりろん】

1928年ディラック量子力学特殊相対性理論の要求をみたす電子の波動方程式(波動力学)を提出したが,この式はエネルギーが正と負の二つの解をもつ。この負エネルギーの困難を避けるため彼は,すべての負エネルギー状態が電子によってみたされている状態が真空で,外からエネルギーを与えられるとこの電子が正エネルギー状態にとび上がって普通の電子として観測されるようになり,他方,負エネルギー状態にあいた空孔は電子の反粒子すなわち陽電子として観測されると考えた。これが空孔理論で,1932年陽電子の発見(C.D.アンダーソン)により実証された。空孔理論は陽子,中性子にも適用されるが,現在は負エネルギー状態を用いず場の量子論により定式化される。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「空孔理論」の意味・わかりやすい解説

空孔理論
くうこうりろん
hole theory

ディラック方程式の解には,本来は正であるべき運動エネルギーが負になる負エネルギー状態が含まれているが,これを避けるため 1930年に P.ディラックが提案した理論。真空は,すべての負エネルギー状態が通常の電子によって占められている状態であると考え,負エネルギーの電子が正エネルギー状態に移ったあとに残る空孔は,見かけ上,正の電荷をもった電子のようにふるまうものと解釈した。このような空孔は,一般に反粒子というが,特に電子の場合は陽電子という。陽電子は 32年に C.アンダーソンによる霧箱の実験によって発見され,ディラックの空孔理論の正しさが証明された。場の理論では,空孔を陽電子と解釈し直すことによって,負エネルギー状態の概念は不要になる。

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世界大百科事典(旧版)内の空孔理論の言及

【ディラック方程式】より

…しかし,一方では(1)の方程式には負のエネルギーをもつ解があり,電子が負のエネルギー状態に落ち込む可能性があるという不つごうを生じた(クラインのパラドックス)。これは最初ディラックの理論の欠陥と考えられていたが,ディラックは,真空とはすべての負エネルギー準位に電子が充満している状態であるとし,このうち一つの状態の電子にエネルギーが与えられて正エネルギー状態へ移り空孔ができると,その空孔は電子と逆に正の電荷をもち,正のエネルギーの粒子として観測されるという空孔理論を提唱して説明を与えた。彼は初め空孔を陽子と考えたが,32年に陽電子が発見され,空孔はこれであることがわかった。…

※「空孔理論」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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