翻訳|mutagen
生物の遺伝子や染色体などに作用して突然変異や異常をおこさせる効力をもった物理的または化学的要因。生物は自然の状態でも一定の低い頻度で突然変異をおこしている。これを自然突然変異spontaneous mutationといい、その頻度は、普通、1遺伝子座当り世代当り微生物で1億から10億回に1回、高等生物で10万から100万回に1回程度である。この自然突然変異の頻度を有意に増大させる作用をもつ要因を突然変異原という。
突然変異原にはアルキル化剤、芳香族アミン、ニトロ化合物、ニトロサミン(ニトロソアミン)などの化学変異原や、X線、γ(ガンマ)線、中性子線、紫外線などの放射線がある。これらの突然変異原によって誘発される誘発突然変異(人為突然変異)には、DNA(デオキシリボ核酸)レベルでは核酸塩基置換や塩基枠組み移動、遺伝子や染色体レベルでは欠失や切断、逆位、重複、転座などの異常がある。
1970年代になって人間の生活環境中にも種々の突然変異原が存在することが解明されてきたが、これらをとくに環境変異原environmental mutagenとよぶ。たとえば、医薬品、食品添加物、化粧品、農薬や、魚や肉の焼け焦げ、ワラビなどの自然食品のなかにも、微生物や昆虫、培養細胞などにも突然変異をおこす物質が多数検出され、人間に対する影響が危惧(きぐ)されている。突然変異原は遺伝学の各分野での基礎的な研究に多く使用され、また育種などの応用分野でも品種改良などに有用であるが、一方、環境変異原は発癌(はつがん)の原因ともなる突然変異をおこす作用があり、また生殖細胞を通じて子孫の遺伝的資質にも影響を与えると考えられるため、それらの存在量や安定性、生体内での活性化や失活化、抗変異原物質の影響などが注目されている。正常細胞の癌化の過程には、イニシエーション、プロモーション、プログレッションなど多くの段階が想定されていて(発癌の多段階説。項目・癌の「癌の特性と進展」の章を参照)、細胞核中の遺伝子DNAや細胞質、細胞膜の変化、細胞の異常増殖などによって「癌」が生成する。大腸癌の発生では、この各段階で作用する染色体上の特定の癌遺伝子や発癌抑制遺伝子の関与が知られている。この発癌の各過程の遺伝子の突然変異には、食物や飲物をはじめ環境中に存在する種々の環境変異原が作用していると考えられている。
[黒田行昭]
『田島弥太郎・吉田俊秀・賀田恒夫編『化学物質の突然変異性検出法』(1973・講談社)』▽『田島弥太郎著『環境変異原実験法』(1980・講談社)』▽『市川定夫著『環境学――遺伝子破壊から地球規模の環境破壊まで』第3版(1999・藤原書店)』
生物に突然変異を誘発する要因をいい,それが物質の場合は突然変異原物質あるいは単に変異原物質という。これら突然変異原は,催奇形性や癌原性をももつことが多い。突然変異は自然界でも一定の頻度で発生しているが,ある要因の作用下では,自然の突然変異発現の頻度よりも高頻度で突然変異が誘発される。この要因が突然変異原で,おもなものとして,温度変化,放射線,化学物質などがあげられる。突然変異原は多くの場合,細胞中の遺伝子を構成するDNAに作用し,塩基配列の順序や組合せを変異させる。たとえば紫外線では,DNAの主鎖を切断したり,T-T(チミン-チミン)あるいはC-C(シトシン-シトシン)というようにピリミジン2個が隣り合っている場合には,それを重合させ,DNAを不活性化させる。一方,化学物質の5-ブロモウラシルなどでは,チミンの代りにDNAに取り込まれ,複製に際して,本来の塩基と別な対合塩基を選択するようになる。生物はこのようにして生じたDNAの傷に対し,みずから修復する能力をもってはいるが,修複能力を超えて変異が起こったり,修復過程で誤りが発生すると,DNAの組成が変わり,突然変異が生じることになる。紫外線やX線などの放射線では,突然変異の頻度は放射線量に比例する。また突然変異原となる化学物質には,アルキル化剤,5-ブロモウラシルや5-フルオロウラシルなどのような塩基類似体,ヒドロキシルアミン,アクリジン色素などがある。これらの化学物質は,発癌性や催奇形性をもつものが少なくなく,近年,食品添加物や工業廃棄物,あるいは薬品のなかの突然変異原物質が問題となってきている。しかし,いろいろな方法が試みられてはいるが,突然変異原性の化学物質の検出は,特定の実験動物については容易でも,ヒトについて,その危険度を推定したり,定量的解析をすることには困難が多い。
執筆者:川口 啓明
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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