近世柔術の源流的役割を担った流儀の一つで、柔術のほか槍(やり)、薙刀(なぎなた)、棒杖(ぼうじょう)などを含む兵法武術。1532年(天文1)、作州(岡山県)久米(くめ)郡垪和庄(はがのしょう)の人、竹内中務大夫久盛(たけのうちなかつかさだゆうひさもり)の創始と伝える。その術は「小具足腰廻(こぐそくこしのまわり)」の名でよばれるように、後世の徒手(としゅ)本位(無手(むて))の格技ではなく、戦場組討に勝ちを収める術として編み出されたもので、家伝によれば、久盛は幼少より兵法を好み、この年6月、日ごろ信仰する愛宕(あたご)の神に武術の開悟を祈念するうち、夢中に修験者風の異相の者が現れ、まず2尺4寸の木刀を二つに切って小刀とし、これを用いて小具足の術を教え、ついで長さ7尺5寸の葛縄(かずらなわ)をとって、速やかに武者をからめ捕る捕手(ほしゅ)の術を示し、さらに腰の廻りという組討の術5か条を授けたという。
久盛の子、常陸介(ひたちのすけ)久勝(2代)、その子加賀介(かがのすけ)久吉(ひさよし)(3代)はさらにくふうを重ね、ともに京都に出て、日下捕手開山(ひのしたほしゅかいさん)の称号を受け、寛永(かんえい)の末ごろ(1640ころ)までに、腰の廻り25か条、同じく口伝65か条、捕手5か条からなる伝授体系をつくりあげた。久吉は帰国ののち、領主の津山藩主森長継に仕え、500石を賜り、城下の道場で教授したが、晩年は二男久且(ひさかつ)にこれを譲り、垪和郷に帰農し1671年(寛文11)69歳で没した。久吉の三男の藤一郎久次が宗家4代を継ぎ、以下代々よく家業を守って明治に及んだが、この間享保(きょうほう)(1716~36)、天保(てんぽう)(1830~44)の両度、一子相伝の適任者に恵まれず、宗家断絶の危機にみまわれている。享保年間には津山藩士の吉村兵助扶儔(すけとも)が、天保のそれには淡路(あわじ)洲本(すもと)藩の池内雅門太久居(がもんたひさすえ)が、後見役として献身的な努力を続け、よくその危機をしのぎ、流儀の断絶を回避した功績は大といわなければならない。なお、同流から分派したものとして、久次の二男藤大夫久儔(とうだゆうひさとも)が讃州(さんしゅう)高松の松平頼重(よりしげ)に仕え、その信任を得て各派刀術を研究して創立した高松御流儀(たかまつごりゅうぎ)、熊本藩で栄えた竹内三統流(たけうちさんとうりゅう)、筑前(ちくぜん)の二上半之丞(ふたがみはんのじょう)が始めた双水執流(そうすいしつりゅう)などが有名である。
[渡邉一郎]
柔術流派の一つ。1532年(天文1)創始と伝えられ,記録の上では柔術諸流のうちで最も古く成立した流派として有名である。流祖は作州(岡山県)久米郡垪和(はが)庄の守護職であった竹内中務大輔久盛(なかつかさだゆうひさもり)。彼は何年もの苦行の末に捕縛を中心とした一流を編み出した。これを竹内流腰の廻りという。この流れをくむものに,熊本に栄えた竹内三統流と双水執流などがある。なお,現在もその奥技が岡山市の旧建部町に伝えられている。
執筆者:竹内 善徳
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…江戸時代になると,槍は武士のもつ武具として,またたしなむべき武術として非常に重要な位置を占めるようになり,腰の二刀とともに武士階級を象徴するようになった。流派も数多く出現するが,素槍では,大内無辺の無辺流,竹内藤一郎の竹内流,中山源兵衛吉成の風伝流など,鎌槍では,奈良宝蔵院の僧胤栄の宝蔵院流(これは高田派,中村派,礒野派などに分派する),鍵槍では,内海六郎右衛門重次の内海流,佐分利猪之助重隆の佐分利流,管槍は,伊東紀伊守祐忠の伊東流,小笠原内記貞春の日本覚天流,津田権之丞信之の貫流などがおもな流派である。江戸時代初期にほぼ完成をみた槍術は,中期から後期にかけて技や理論もくふう研究され,とくに練習法の進歩はめざましく,双方が防具を着けて仕合稽古を行うようになった。…
※「竹内流」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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