塩町(読み)しおまち

精選版 日本国語大辞典 「塩町」の意味・読み・例文・類語

しお‐まちしほ‥【塩町】

  1. [ 一 ] 江戸時代、大坂にあった岡場所。現在中央区。
    1. [初出の実例]「あるはしほ町の下やしきに百菊をながめ」(出典:評判記・役者口三味線(1699)大坂)
  2. [ 二 ] 浄瑠璃太夫、三世竹本政太夫の異名。大坂塩町に住んでいたところからの称。
    1. [初出の実例]「酒客めが、紙治の茶屋場を出して、丸で塩町(シホマチ)(〈注〉政太夫)の気で語りをるから」(出典:滑稽本・浮世風呂(1809‐13)前)

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例

日本歴史地名大系 「塩町」の解説

塩町
しおまち

[現在地名]浜松市塩町・成子町なるこちよう元魚町もとうおちよう海老塚町えびつかちよう

旅籠はたご町の南、南北に通る東海道に沿う。南は成子坂なるこざか町に続き、東は平田なめだ(井上氏時代城下絵図など)。御役町六町の一。当町の塩商人は古くは若林わかばやし村で塩御用を勤め、田地高四二〇石に対する物成を納めていたが、のち半頭はんとう町に移住、さらに高力氏が藩主の時代に当地に移ったという。その後も田地高四二〇石の由緒をもって塩売買による運上金を納めてきたという。当地に移ったおり地子免許となったが、寛永一五年(一六三八)伝馬役も課せられた(旅籠町平右衛門記録)


塩町
しおちよう

[現在地名]八戸市柏崎かしわざき一丁目・同四丁目の各一部

八戸城下の北東、表町通沿いに位置する町人町。東は下組しもくみ町、西は廿八日にじゆうはちにち町、南は柏崎新かしわざきしん町、北は柏崎村に接する。中央を南西から北東に街路が通る。文久年間(一八六一―六四)八戸御城下略図に塩丁、その東に同二丁目とあり、いずれも町家とされる。東端の北側に「御大豆蔵」と「御塩蔵」がみえるが、町名の由来は藩の塩蔵があったことによろう。御勘定所日記の嘉永二年(一八四九)三月一五日条には「軽米郷ニ御買上大豆数百駄塩丁御蔵御付下被仰付候」とある。


塩町
しおまち

[現在地名]村上市塩町

東方は町の坂下と加賀かが町西口の二ヵ所から入り、てら町の北方河岸段丘の下に東西に延びる。西隅前を南に折れて坂を登ると途中で東進する寺町通と三差路をなし、さらに直進すると小国町おぐにまち通と合する。町名は初め小町が持っていた塩の占売権を受け継ぎ、地浜塩を扱ったことに由来する。寛永一二年(一六三五)の村上惣町並銘々軒付帳(本間喜千郎氏蔵)には現在の寺町の東半分をさす「本塩町」がみえ、家数二〇。


塩町
しおまち

[現在地名]青森市青柳あおやぎ二丁目の一部

おお町の東、たばこ町までをいう。

寛文四年(一六六四)に町割され「寛文四年自同八年迄五年之間無役同九年自壱軒に付地質金拾文つゝ上納可仕」きことで成立した(青森市沿革史)。寛文年間の絵図(市立弘前図書館蔵)によれば「本町通派」とある。貞享四年(一六八七)の検地では、塩町に三〇人の町人が記される(青森市沿革史)


塩町
しおまち

[現在地名]掛川市塩町

掛川宿一三町の一つで、東西に走る東海道の南裏通りの両側町。東は町、南は総構えの堀を隔てて南西郷みなみさいごう村・上張あげはり村に接する。西は神代地かんだいじ川を境にさかな町、北は仁藤にとう町に接する。肴町とともに榛原はいばら郡の相良さがら(現相良町)川崎かわさき(現榛原町)の湊に至る街道の起点で、当町だけが塩を売ったのが町名の由来という。「掛川誌稿」によると、塩はすべて川崎の海岸で製したものであったが、当時はよそでも塩を売る者があった。正保城絵図では町屋としてみえ、安永元年(一七七二)の懸河町家並絵図(松田家蔵)に塩町と記される。


塩町
しおまち

[現在地名]西区塩町

納屋なや町筋、つまり堀川西岸ほりかわせいがん通の堀江ほりえ町の南、大船おおふな町の北にあり、堀江町との境界ときよう町筋五条ごじよう橋の間をいう(尾張志、府城志)清須きよす越しの町で移転時期未詳(蓬左遷府記稿)。最初、堀川片ほりかわかた町一丁目ととなえた。町並が道筋の片側だけに限られたため(尾張城南陌名由緒)。二丁目と記載する書物もある(名府予録、蓬左遷府記稿)


塩町
しおまち

[現在地名]中津市中津 塩町

ふな町の北に続き、東はさくら町・やなぎ町、西はこめ町、北は北門きたもん通。長さ約二町の商店街。享保四年(一七一九)の軒数四八・竈数五〇、宝暦一三年(一七六三)の大火で一三竈を類焼。安永六年(一七七七)の調査では空地二・空家七。天明四年(一七八四)元旦の夜、当町播磨屋市郎兵衛方より出火、当町一五軒と桜町八軒が類焼した。文化二年(一八〇五)には軒数四八・竈数三六、空家四と衰微してきている(惣町大帳)。宝暦五年一〇月酢屋吉右衛門は舟町賄屋市右衛門と炭座の許可を願出た。


塩町
しおまち

安堂寺町あんどうじまち通の一筋南を東西に通る塩町通の両側町で、東の東横堀ひがしよこぼり川側から一―四丁目がある。塩町通は西横堀川まで延び、塩町四丁目の西にくるま町・南勘四郎みなみかんしろう町・五幸ごこう町が続く。大坂濫妨人并落人改帳に「大坂塩町」とあり、慶長年中(一五九六―一六一五)には町となっていたようである。「西鶴織留」の「只は見せぬ仏の箱」に「塩町に、常住ひりんずの内衣して居る尼有」とみえる。「難波鶴」によると古手仲買商人と白革(鹿革)屋が集住したようである。また同書に長崎貨物人一が載る。延享版「難波丸綱目」には古手屋仲買塩町組として、さかい筋より心斎橋しんさいばし筋までとあり、塩町三―四丁目、車町一帯に古手屋仲買商人がいたことを示し、また白革屋も続いていた。


塩町
しおまち

[現在地名]米子市塩町

大工だいく町の北に続く伯耆街道両側を占める町人町。西側は外堀の東岸に沿う。総間数一一九間。大工町との境、外堀の支流に塩町橋が架かり、橋の東西に二〇間と一五間の短い小路があった(明治二年「町々間数等書上」米子市史)。近世中期以降のものとみられる伯州米子之図(県立博物館蔵)では当町と北のちや町が逆に記されている。


塩町
しおまち

[現在地名]福井市照手てるて一丁目

きよう町を西に折れたところにあり、東西に延びる町で、西はやま町、北はえびす町、南は町。慶長年間北庄四ツ割図に町名がみえ、家数は三五。正徳三年(一七一三)頃の御城下惣町間数帳は「塩町 七拾三間、往還ヨリ山町迄、但道幅三間半」と記す。塩商人の集まる町で、明治五年(一八七二)の調査でもなお塩屋五軒があった(福井市史)


塩町
しおまち

[現在地名]大和郡山市塩町

うお町と合わせて一町を形成する。天正一六年(一五八八)の郡山惣町分日記(春岳院文書)では魚町とともに一町で内町(箱本)一三町のうちに数えられた。おもに初期は塩を扱う商人たちが住んでいたものであろう。


塩町
しおまち

[現在地名]西尾市塩町

ほん町の東にこれと平行して南北に走る細い道の両側。往昔この辺りを石原いしはらといい、饗庭あいば(現幡豆郡吉良町)の人が来て、塩問屋を開いたところからこの名が起こるという。塩問屋は、その収益の幾分かを町内に納め、市中を小売行商するようになる。嘉永四年(一八五一)の家数四七、人数一六九、うち男八八・女八一。


塩町
しおちよう

[現在地名]水戸市ほん町三丁目

うら五町目と裏六町目の間にあり、北は本五町目・本六町目。「新編常陸国誌」には「長五十二間アリ〔古記云、東西両側各十六間、南側二十四間、戸数十三〕」とある。「水府地名考」に「此町は御塩屋四郎左衛門矢口吉左衛門なといふ塩問屋其外にも問屋又は卸し売なとする店もありし故、塩町の名も起れり」とあり、「水府地理温故録」には「今はいたや権十已也。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

世界の電気自動車市場

米テスラと低価格EVでシェアを広げる中国大手、比亜迪(BYD)が激しいトップ争いを繰り広げている。英調査会社グローバルデータによると、2023年の世界販売台数は約978万7千台。ガソリン車などを含む...

世界の電気自動車市場の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android