浄瑠璃作者。本名穂積成章(季昌かとの説もある)。父は伊藤東涯の門人穂積以貫(これつら)。父以貫は儒者ながら大坂の竹本座の文芸顧問をつとめたこともあり,近松門左衛門と親交深く,浄瑠璃評注釈《難波土産》(1738)所載の近松の芸術論(いわゆる〈虚実皮膜(ひにく)の論〉)も以貫の聞書きとされている。半二は青年時は放蕩したと伝えるが,2世竹田出雲(外記)の門に入って竹本座の作者となり,近松に私淑してその姓を名のった。初作の1751年(宝暦1)《役行者大峰桜》(立作者出雲)は《妹背山婦女庭訓》の母体となる作で,思想や作法に後年の半二の特色が認められる。以後宝暦期(1751-64)前半は竹田出雲,三好松洛,吉田冠子ら先輩に伍して,竹本座の新作に合作者として名を連ね,出雲が没した57年(宝暦7)に遺稿を完成させる形をとった《昔男春日野小町》で再び頭角をあらわし,宝暦後半期竹本座の作品には半二色が濃厚となっていく。この期の作では《日高川入相花王(いりあいざくら)》《極彩色娘扇》《由良湊千軒長者》などが著名。62年の《奥州安達原》以後,70年(明和7)まで立作者近松半二,脇作者竹本三郎兵衛に群小作者が加わった体制で,《敵討稚物語》《蘭奢待新田系図》《姻袖鏡(こんれいそでかがみ)》《本朝廿四孝》《小夜中山鐘(つりがねの)由来》《太平記忠臣講釈》《関取千両幟》《三日太平記》《傾城阿波の鳴門》《近江源氏先陣館》《太平頭鍪飾(たいへいかぶとのかざり)》(現行曲《鎌倉三代記》の原型)と名作を相次いで生むが,半二の健筆にもかかわらず,人形浄瑠璃は衰退期にさしかかり,1767年には竹本座も退転し,再興はされたものの興行的に不安定な状態が続く。71年,傑作《妹背山婦女庭訓》(三好松洛らと合作)を著した後,安永期(1772-81)には世話物が多くなり,《心中紙屋治兵衛》(《心中天の網島》の改作。上の巻は現行の《河庄》),《往古(むかしむかし)曾根崎村噂》《新版歌祭文》などが生まれる。83年(天明3)に最後の傑作《伊賀越道中双六》を著し,上演に先立つ2月4日59歳で没(没年に異説あり)。
半二は時代物を得意とし,その作品は重厚かつ変化に富み,大衆に訴えかける花やかさや甘さを適度に備え,現代の文楽,歌舞伎でも,上演頻度がきわめて高い。作劇上の特色としては,一般に,構成その他に複雑な技巧を弄し,舞台空間の処理に対位法を用いるなど視覚面を重視し,さらに詞(ことば)を多用して歌舞伎的であること,などが挙げられ,それらは浄瑠璃として末期的傾向を示すものとされている。思想面からいえば古義学派のヒューマニズムの影響を受け,完成期の並木宗輔の浄瑠璃の根底にある中世的無常観を排除し,人間の価値の再発見,合理的精神,強い自己主張などを打ち出したことに特色が認められる。彼の作品に,激しい意志を持ち,目的のために非情な行為もあえてする人物が多く登場すると同時に,追い詰められた状況のもとで,封建社会の義理を踏み越え,情に殉ずる生き方が肯定的に描かれる(《近江源氏先陣館》《伊賀越道中双六》など)のも,この思想にもとづくものといえる。
執筆者:内山 美樹子
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(原道生)
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江戸中期の浄瑠璃(じょうるり)作者。本名穂積(ほづみ)成章。大坂の儒者穂積以貫(これつら)の子。以貫は竹本座の顧問を務め、近松門左衛門とも親交があり、『難波土産(なにわみやげ)』所載の近松の芸術論は以貫の聞書(ききがき)といわれている。半二は若いころは遊蕩(ゆうとう)生活を送ったと伝えられるが、父の縁で2世竹田出雲(いずも)の門に入って竹本座の作者となり、近松に私淑してその姓を名のった。1762年(宝暦12)『奥州安達原(おうしゅうあだちがはら)』で力量が認められ、翌年立(たて)作者となり、以来『本朝廿四孝(ほんちょうにじゅうしこう)』『関取千両幟(せんりょうのぼり)』『傾城阿波(けいせいあわ)の鳴門(なると)』『近江源氏先陣館(おうみげんじせんじんやかた)』『妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん)』『新版歌祭文(うたざいもん)』など多くの名作を残し、83年(天明3)『伊賀越道中双六(いがごえどうちゅうすごろく)』を絶筆として59歳で没した。作者生活33年、その作57編に及ぶが、単独作は『新版歌祭文』など四編で、ほかはすべて三好松洛(みよししょうらく)、竹本三郎兵衛(さぶろべえ)らとの合作である。半二は時代物を得意としたが、その作劇上の特色は、構想の雄大、推理劇的な筋の展開、歌舞伎(かぶき)の影響の濃い台詞(せりふ)の多用、場面構成の左右対称美などがあげられる。彼は人形浄瑠璃の衰退期において最後の活躍をし、近松門左衛門、並木宗輔(そうすけ)に次ぐ代表的な浄瑠璃作者として高い評価を与えられている。なお晩年の随筆『独判断(ひとりさばき)』には彼の人生観がうかがわれる。
[山本二郎]
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1725~83.2.4
江戸中・後期の浄瑠璃作者。本名穂積成章。近松門左衛門とも親交があった大坂の儒学者穂積以貫(いかん)の次男。2世竹田出雲に師事して竹本座の座付作者となり,1751年(宝暦元)「役行者大峰桜(えんのぎょうじゃおおみねさくら)」の初段の執筆が最初。以後絶筆の「伊賀越道中双六」まで57編の作品を残す。対位法的な場面構成,歌舞伎的な技法の導入などに特色がある。
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…通称《安達原》。近松半二・竹田和泉・北窓後一・竹本三郎兵衛らの合作。1762年(宝暦12)9月大坂竹本座初演。…
…9段。近松半二・八民平七・松田才二・三好松洛・竹田新松・近松東南・竹本三郎兵衛の合作。1769年(明和6)12月大坂竹本座初演。…
…5段。竹田出雲・吉田冠子・中邑閏助・近松半二・三好松洛の合作。1754年(宝暦4)10月大坂竹本座初演。…
…10段。近松半二,八民平七,寺田兵蔵,竹田文吉,竹本三郎兵衛による合作。1768年(明和5)6月大坂竹本座で初演。…
…角書〈おそめ久松〉。近松半二作。1780年(安永9)9月大坂竹本座初演。…
…
[古典化時代――18世紀後期以後]
人形浄瑠璃は劇と語り物の接点に立つ舞台芸術で,中世的語り物の域を脱し,近世興行界で歌舞伎と鎬(しのぎ)を削っていくには,演劇性,写実性の大幅な摂取が必要であったが,その面に徹すれば語り物の本質が失われる。人形操法,太夫の語り口が,演劇的,写実的に発達し切った1740年代に,並木宗輔の戯曲は,叙事詩的時間処理に留意し,無常観を根底に置くことで,劇と語り物の最後の均衡を保ち得たが,近代への胎動が兆す18世紀後期の作者近松半二は,語り物の思想である無常観を排し,主人公の主体的行為を追求する劇の方向を推し進め,《奥州安達原》《本朝廿四孝》《妹背山婦女庭訓(おんなていきん)》《伊賀越道中双六》など,ダイナミックで絢爛たる舞台を繰りひろげた。しかし1765年(明和2)に豊竹座,67年には竹本座が退転し,半二没後,特に19世紀以後は新作にみるべきものはなく,人形浄瑠璃の現代劇の時代は終わった。…
…浄瑠璃作者近松半二著の随想。1787年(天明7)山田卯兵衛版。…
※「近松半二」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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