改訂新版 世界大百科事典 「結城親朝」の意味・わかりやすい解説
結城親朝 (ゆうきちかとも)
生没年:?-1347?(正平2?・貞和3?)
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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没年については推定。南北朝時代の武将。白河(しらかわ)結城宗広(むねひろ)の子。初名は親広(ちかひろ)。修理権大夫(しゅりごんだゆう)、大蔵大輔(おおくらのたいふ)。1333年(元弘3・正慶2)後醍醐(ごだいご)天皇の勅に応じ、陸奥(むつ)白河庄(しょう)で挙兵。34年(建武1)北畠顕家(きたばたけあきいえ)が鎮守府を開くと、出仕して式評定衆(しきひょうじょうしゅう)に任ぜられ、白河庄以下七郡庄保の検断職(けんだんしき)を兼ねた。南北朝分裂後も南朝方にくみしたが、陸奥での戦況が悪化すると、北畠親房(ちかふさ)からのたびたびの救援要請にも応じられず、43年(興国4・康永2)足利尊氏(あしかがたかうじ)に降(くだ)った。同年二男朝常(ともつね)に所領を譲り、結城小峰(こみね)氏を継がせた。
[市村高男]
『『福島県史 通史編1』(1969・福島県)』
(市村高男)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…この後,小田,関,大宝等の諸城に拠って東国へ南朝軍の結集につとめ,一時はかなりの成功をおさめた。この間白河の結城親朝に参加を促しつづけるために書かれた70通以上の書状が伝来しているが,これは中世史上個人から個人へあてられた書状としては最大の量であり,もし他の武士にも同様の勧誘がなされたとしたら,同時期におこなわれた《神皇正統記》《職原鈔》の執筆と相まって,親房の旺盛な執筆能力は驚くべきものがある。なお関東在陣中の39年(延元4∥暦応2)後醍醐天皇は吉野に没し,親房はこの第3の死を小田城中に聞いた。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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