翼賛体制(読み)よくさんたいせい

改訂新版 世界大百科事典 「翼賛体制」の意味・わかりやすい解説

翼賛体制 (よくさんたいせい)

大政翼賛会を中心とする第2次世界大戦中の政治体制。日中戦争の長期戦化にともない,〈国防国家体制〉と呼ばれた国家総力戦体制の樹立が必要となり,そのためには国務(政府)と統帥軍部)の矛盾をはじめとする支配層内部の対立解消と国民の戦争協力への自発性を永続的にひきだす組織の結成が不可欠の課題となった。そのため近衛文麿首相を中心とする新体制運動が展開され,1940年10月12日大政翼賛会が結成された(総裁は首相が兼任)。これと並んで部落会・町内会隣組の整備と官製国民運動団体の再編統合が行われ,農業報国連盟(1938年11月23日。44年5月22日農業報国会と改称),商業報国会(1940年11月21日),日本海運報国団(11月22日),大日本産業報国会(11月23日),大日本青少年団,大日本翼賛壮年団(ともに1942年1月16日),大日本婦人会(2月2日)などがあいついで結成された。しかし大政翼賛会は,支配層各勢力の激しい政争のなかで〈公事結社〉と認定されて政治活動を禁止され,内務官僚と警察が会の主導権を握った。そのため大政翼賛会は,政府の〈上意〉を〈下達〉する行政補助機関となり,上からの命令で国民を動員しようという安易な官僚主義がはびこり,国民の真の自発性が発揮されないという弊害があらわれた。そこで陸軍の指導下に大政翼賛運動の実践部隊として大日本翼賛壮年団翼壮)が結成された。実践力を誇る翼壮は,農村を中心に下からの急進ファシズム的な運動を展開し,翼賛会,翼賛政治会,市町村役場とのあいだで紛争を起こした。放置すれば翼賛体制に亀裂が入るため,43年末東条英機内閣は翼壮に対して統制を加え,翼壮の活動力は衰えた。

 一方,東条内閣は,太平洋戦争の緒戦の勝利を利用し,1942年4月30日にいわゆる翼賛選挙を実施した。政府は衆議院議員総選挙に初めて候補者推薦制度を導入し,議員定数466名中381名の推薦議員を当選させた。ついで5月20日政府の指導のもとに翼賛政治会が結成され(総裁阿部信行元首相),刑事訴追者8名を除く458名の衆議院議員,定数411名中326名の貴族院議員および各界有力者202名の合計986名が加盟した。そのため帝国議会は政府の翼賛機関に変質し,残っていた右翼の小政党もすべて解散に追い込まれ,形式的には一党独裁体制が出現した。さらに政府は,6月23日大政翼賛会の機能を強化するため,大日本産業報国会などの官製国民運動6団体を翼賛会の傘下に編入し,8月14日には部落会・町内会に大政翼賛会の世話役を,隣組に世話人をおくことを決定した。人選にあたっては部落会長・町内会長(約21万名)と世話役を,隣組長(約133万名)と世話人をそれぞれ一致させる方針がとられた。ここに翼賛会を中心とする官製国民運動団体と部落会・町内会・隣組の地方自治組織という2本立てのルートを通じて国民支配組織の一元化が達成され,天皇制ファシズムが確立した。

 こうして完成した政府,大政翼賛会,翼賛政治会による三位一体の政治体制を翼賛体制と呼ぶ。しかし国務と統帥の矛盾を中心とする支配層内部の対立は解消されず,強力な一元的戦争指導体制は実現されなかった。国務と統帥の矛盾解決については,東条首相兼陸相の参謀総長兼任と嶋田繁太郎海相の軍令部総長兼任(1944年2月21日),小磯国昭内閣による大本営政府連絡会議の廃止と最高戦争指導会議の設置(8月5日),天皇の特旨による小磯首相と鈴木貫太郎首相の大本営出席(1945年3月16日,4月19日)という措置がとられたが,ついに未解決のまま終わった。他方,戦局の悪化にともない翼賛体制に亀裂が入りはじめた。1943年1月の第81議会では右翼議員と一部の自由主義的議員による〈東条独裁〉批判が表面化し,6月には東方会の中野正剛,ついで同交会の鳩山一郎ら5名が翼賛政治会を脱会した。44年7月22日東条内閣にかわって小磯内閣が成立するとともに,政府の統制力が低下した。翼賛政治会の主導権を握る旧既成政党の指導者は,45年3月30日同会を解散して大日本政治会を結成したが(総裁南次郎陸軍大将),護国同志会の31名と翼壮議員同志会の20名の合計51名が参加せず,従来の翼賛政治会による事実上の一党独裁体制が崩壊した。

 一方,小磯内閣は〈一億総武装〉による〈本土決戦〉を呼号し,1945年3月23日国民義勇隊結成の方針を決定,6月23日義勇兵役法が公布された。これにともない,大政翼賛会とその傘下の官製国民運動団体の多くは解散し(5月30日大日本翼賛壮年団,6月13日大政翼賛会と大日本婦人会,6月16日大日本青少年団,6月30日農業報国会と商業報国会),すべて国民義勇隊へ合流した。国民義勇隊は国家権力による国民の画一的組織化と根こそぎ動員の極限形態であり,天皇制ファシズムによる国民支配の終着点を示すものであった。しかし現実の国民義勇隊は,戦災地の後片づけや各種の勤労奉仕に出動するといった程度の組織にすぎず,ファシズム体制の空洞化を象徴した組織でもあった。翼賛体制は,以上のような内部矛盾と組織の空洞化をかかえたまま,敗戦を迎えた。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

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