聖神社(読み)ひじりじんじや

日本歴史地名大系 「聖神社」の解説

聖神社
ひじりじんじや

[現在地名]和泉市王子町

信太山しのだやま丘陵の西端、標高約四五メートルのところにある。祭神聖大神。旧府社。「延喜式」神名帳の和泉郡に「ヒシリ神社」とみえる。祭神の聖大神は、大歳神(素盞嗚命の子神)の子神(古事記)。中世・近世には信太明神とよばれた(泉州志ほか)

創祀については不明だが、当社の所在地信太郷(和名抄)の支配的氏族であったとみられる信太首の氏神社として祀られたのに起源すると推測される。信太首は百済からの渡来氏族である(新撰姓氏録)。貞観元年(八五九)五月七日官社に列し、同年八月一三日従四位下に昇叙(三代実録)。昌泰元年(八九八)宇多上皇が御幸、菅原道真が供奉して御衣を納めたと伝える(大阪府全志)。永万元年(一一六五)六月日の神祇官諸社年貢注文(永万文書)には和泉国の五社が挙げられているが、その一として当社名がみえ、年貢として櫛を納めている。


聖神社
ひじりじんじや

[現在地名]秩父市黒谷

みの山から南東に延びる支脈和銅わどう山を背に鎮座する。大日貴命・国常立命・神日本磐余彦命などを祀り、旧村社。伝承によると慶雲五年(七〇八)銅山で発見された和銅を朝廷に献じたところ、朝廷はこれを慶事として和銅と改元、勅使として多治比真人三宅麻呂を下向させて銅山を見分し山麓神祠建立、前出三神を祀ったのが草創とされる。建立時には内陣に採掘した和銅一三個・元明天皇下賜の銅製百足雌雄一対を納め、のち元明天皇を合祀して秩父総社と改称したとされる(秩父郡神社明細帳)


聖神社
ひじりじんじや

[現在地名]鳥取市行徳

行徳ぎようとくの西端にあり、江戸時代の鹿野しかの往来(古海往来)に面する。約一〇〇メートルほど西に千代川の土手がある。旧郷社。祭神は天津日高日子番能邇邇芸命・日子穂穂手見命・事代主神。境内社の祭神は保食神。江戸時代は聖大明神と称された。創建年代は不明。「鳥府志」は祭神を吾勝尊・瓊瓊杵尊二座とする。安永五年(一七七六)神階正一位を授かり、翌六年初めて夏祭を行った。祭日は寛政年間(一七八九―一八〇一)頃まで六月六日から一一日までであったが(因幡志)、のち一一日に改まったという(鳥府志)


聖神社
ひじりじんじや

[現在地名]日野町黒坂

黒坂くろさかの南西部、日守ひもり(日毛利山)の東麓に鎮座する。旧郷社。祭神は大国主命。社地は東西一二間・南北八間、社殿は八尺に六尺(伯耆志)。古くは聖権現と称した。社伝によると、大同二年(八〇七)当地の高里某・井上某が出雲大社から勧請したという。古くは日守山の山上に社殿があったが、正徳年中(一七一一―一六)現在地に遷座し、当社と牛王社を両社一殿としたという(「伯州黒坂開元記」山上家文書)。歴代の国司、戦国期の尼子氏・毛利氏の諸将、近世初頭の関一政および黒坂陣屋の福田氏に尊崇されたといわれる。なお天正三年(一五七五)一二月一〇日の香川景盛書状(長谷部家文書)にみえる「黒坂五百貫之大宮司之儀」とは当社の神職の意とされる(日野郡史)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

事典・日本の観光資源 「聖神社」の解説

聖神社

(鳥取県鳥取市)
鳥取県民の建物百選指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報

世界大百科事典(旧版)内の聖神社の言及

【信田妻】より

…安倍野の里は四天王寺と住吉神社との中間の地だが,この地に安倍野童子と称された下級陰陽師,唱門師の集落があったのではないかと想像されている。また安倍野の近くの信太森(現,和泉市内)の聖(ひじり)神社には,末社に葛の葉社があって,この付近には江戸時代末まで陰陽師村があり,暦などを配っていたが,これらの陰陽の徒が葛の葉社の由来譚としてこの物語を語り始めたものと考えられている。信田妻の物語はその後の浄瑠璃や歌舞伎の素材とされ,また長野県をはじめ各地で昔話や伝説としても伝えられている。…

※「聖神社」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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