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良忍 りょうにん

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

良忍
りょうにん

[生]延久5(1073).1.1. 尾張
[没]天承2(1132).2.1. 京都
平安時代の僧。融通念仏宗。 12歳で出家し,比叡山で天台教学,園城寺で梵網戒,仁和寺密教を学ぶ。天仁2 (1109) 年大原に来迎院,浄蓮華院の2院を建てて声明を伝え,また念仏を修していたが,永久5 (17) 年霊告を感得して自他融通の念仏を創唱した。諸国を歴遊して教化に努め,摂津の修楽寺 (のち大念仏寺) を根本道場とした。声明を宣揚したことにより,声明中興の祖とも称される。

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デジタル大辞泉の解説

りょうにん〔リヤウニン〕【良忍】

[1072~1132]平安後期の僧。融通念仏宗の開祖。尾張の人。勅諡(ちょくし)号、聖応大師比叡山常行三昧堂に入り不断念仏を修め、のち大原に引退。融通念仏宗を開き、諸国を勧進し、摂津大念仏寺を創建して根本道場とした。また、声明(しょうみょう)に秀で、天台声明中興の祖とされる。

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百科事典マイペディアの解説

良忍【りょうにん】

平安末期の仏僧。融通念仏宗の開租。尾張(おわり)の人。12歳で比叡(ひえい)山に入り,延暦(えんりゃく)寺,園城(おんじょう)寺,仁和(にんな)寺で修行。比叡山常行(じょうぎょう)堂の堂衆となり,のち大原に来迎院を建てて念仏に終始。
→関連項目融通念仏縁起絵巻

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

良忍 りょうにん

1073-1132 平安時代後期の僧。
延久5年生まれ。比叡(ひえい)山でまなび,東塔常行堂の堂僧(念仏合唱僧)をつとめる。のち山城(京都府)大原に隠棲(いんせい)。来迎(らいごう)院をたて,円仁所伝の声明(しょうみょう)(仏教音楽)を大成。永久5年夢の中で阿弥陀如来より霊告をうけ融通(ゆうずう)念仏をはじめた。天承2年2月1日死去。60歳。尾張(おわり)(愛知県)出身。俗姓は秦。号は光乗房。諡号(しごう)は聖応大師。

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朝日日本歴史人物事典の解説

良忍

没年:長承1(1132)
生年:延久5(1073)
平安後期の浄土教の僧で融通念仏宗の開祖。天台大原魚山声明中興の祖。若年時に良仁と称した。号は光静(乗)房。諡は聖応大師。20歳から31歳ごろには,比叡山の東塔檀那院実報房近辺で勉学の一方,阿弥陀仏を本尊とする常行三昧堂で不断念仏を行じる堂僧(念仏合唱僧)を勤めた。後年大原に隠棲,別所の念仏聖として毎日法華経一部と念仏6万遍を誦し,朝・昼・日没に行法を行う生活に入った。そのかたわら常行三昧堂から念仏と独自の節づけを持つ読経(声明)を切り離して独立させ,仏教音楽として大原魚山流声明の一派を立てた。良忍にはまた修験的苦行者と民間勧進聖の側面があった。それが念仏合唱の指揮者良忍像と相まって,死後ほどなく融通念仏の始祖と目される。融通念仏の思想が完成して流布する鎌倉時代の正和3(1314)年製作の『融通念仏縁起絵巻』によると,良忍は46歳のとき,夢中に阿弥陀仏から,ひとりの念仏は衆人に,衆人の念仏はひとりに通じて速疾往生が成就する,これが他力の融通念仏であるとの啓示を得た。その7年後の天治2(1125)年,良忍が鞍馬寺に詣で通夜をしたとき,本尊毘沙門天が現れて融通念仏を守護すると告げ,日本国中の諸仏,神祇,閻魔王以下の冥途の衆までを念仏衆に加えたことを示す名帳を差し出したという。この伝承を保証として,14世紀以降,阿弥陀仏の本願力以上に衆生の念仏力を重視する融通念仏の活動が活発になる。<参考文献>融通念仏宗教学研究所編『良忍上人の研究』

(上田さち子)

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世界大百科事典 第2版の解説

りょうにん【良忍】

1073‐1132(延久5‐長承1)
平安後期の比叡山の僧で融通念仏宗の開祖。尾張の人。叡山東塔常行堂の堂僧(不断念仏衆)として天台声明(しようみよう)を学ぶ一方,無動寺明王堂に1000日間はだし参りを行う苦行を行った。のち大原に隠棲し,音楽声明の才を生かして念仏の合唱の作曲をし,これを集団で合唱する融通念仏を行った。またこの融通念仏による結縁勧進を勧める勧進活動も行った。後年,聖応大師の号が贈られた。【細川 涼一】

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大辞林 第三版の解説

りょうにん【良忍】

1072~1132) 平安後期の僧。尾張の人。諡号しごうは聖応大師。比叡山東塔に入り、ついで京都大原に隠遁して来迎院を建立。声明しようみようの神髄を究めて天台声明の中興の祖と仰がれる。1117年弥陀の示現をうけて融通念仏宗を創唱。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

良忍
りょうにん
(1072―1132)

平安後期の僧。融通念仏(ゆうずうねんぶつ)宗の開祖。本願上人(しょうにん)ともいう。尾州(愛知県)富田荘(とみたのしょう)領主の子。12歳で比叡山(ひえいざん)東塔の常行三昧(じょうぎょうさんまい)堂に入って不断念仏を修め、良仁の名を与えられたが、山の風紀の乱脈をみるに忍びず、23歳で大原に隠遁(いんとん)し、名を良忍と改めた。46歳のとき、良忍は阿弥陀(あみだ)仏の示現を蒙(こうむ)って、「一人一切人(いちにんいっさいにん)、一切人一人、一行一切行、一切行一行」との偈(げ)を感得し、これにより「一人往生(おうじょう)をとげば衆人も往生をとげむことうたがひあるべからず」(『融通念仏縁起』)という趣旨の自他融通の他力念仏の行者となり、貴賤(きせん)・道俗の勧化(かんげ)を目ざして全国を遍歴した。1127年(大治2)摂津(大阪府)の修楽寺を融通念仏宗の根本道場と定めたが、1132年(長承1)大原来迎(らいごう)院で入滅(61歳)。良忍はまた慈覚(じかく)大師(円仁)の将来した声明(しょうみょう)を習得、大成して、わが国声明中興の祖とも称される。1773年(安永2)聖応(しょうおう)大師の号を追諡(ついし)された。[広神 清]
『田代尚光著『増訂融通念仏縁起之研究』(1976・名著出版)』

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367日誕生日大事典の解説

良忍 (りょうにん)

生年月日:1073年1月1日
平安時代後期の浄土教の僧
1132年没

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世界大百科事典内の良忍の言及

【声明】より

…また江戸時代初頭には南山進流の系統から分かれた智山(ちざん)派,豊山(ぶざん)派の両派が成立し,それぞれ京都の智積(ちしやく)院,奈良の長谷(はせ)寺を中心に伝統を伝えている。天台声明はやはり円仁以来分派していたが,良忍がこれらを統一して大成した。良忍は1109年(天仁2)京都大原に来迎院を建立し,天台声明の中心は爾来大原に移る。…

【大念仏寺】より

…大源山諸仏護念院と号する。融通念仏の開祖良忍が四天王寺で聖徳太子の夢告を受け,1127年(大治2)この地に道場を建立したのが当寺の開創と伝える。本尊は良忍が感得したという十一尊天得如来。…

【融通念仏宗】より

良忍(1073‐1132)を開祖とし,その念仏思想たる融通念仏を信奉する宗派。大念仏宗などともいう。…

※「良忍」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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