茶町(読み)ちやまち

日本歴史地名大系 「茶町」の解説

茶町
ちやまち

[現在地名]秋田市おお町二―四丁目の各一部

大町筋の西の通りで、北は上肴かみさかな町、南は豊島としま町の間に、北から南に茶町きくノ丁・同おうぎノ丁・同うめノ丁と並ぶ。菊ノ丁は現大町二丁目、扇ノ丁は同三丁目、梅ノ丁は同四丁目の各一部にあたる。「梅津政景日記」寛永九年(一六三二)六月一九日条の茶町と大町の家督商品についての争論の記事に、由緒の一端が記される。

<資料は省略されています>

茶町の由来は湊大みなとおおおうぎノ丁、亀の丁(移転後梅ノ丁か)、菊ノ丁の三丁であった。土崎湊からの移転が大町より四、五年遅れたため、茶町を新町とよんだ。大町三丁・とおり町のように二階建てを許されなかったのは、「御城移ニも不罷越」「御奉公なし」とされたためだとある。大町の名を奪われ、家督商品の茶にちなんで、町名をつけたと思われる。

新たに移った茶町筋は、同日記寛永七年三月二六日条に、「馬口労町より茶町へ湊へ之往行致候様に割申たる町にて」とあり、いわば羽州街道の町であった。寛文三年(一六六三)外町屋敷間数絵図(秋田県庁蔵)にみえる扇ノ丁東側間口一五間、梅ノ丁東側間口一四間の二つの御使者宿は、公的使者の宿泊・接待の施設であり、同じ寛文年間に茶町扇ノ丁西側に町奉行支配の駅場役所が設けられ、人馬継立てに使用した(秋田沿革史大成)


茶町
ちやまち

[現在地名]鳥取市茶町・元魚町もとうおまち四丁目

三軒屋さんげんや町の南西に並行して走る道筋に沿った両側町。鹿野しかの往来を挟んで二階にかい町四丁目より北西に続く。北西はふくろ(旧袋川)土手、その外に鋳物師いもじ橋が架かる。元和五年(一六一九)城下町拡張に伴う町割のとき、四〇町のうち下構二〇町の一町として起立された。町名の由来は、池田光政時代茶屋与左衛門という者が七間半間口の茶店を構えていたことにちなむ(因幡志)。また当国には茶が少なく、他国より舟で移入した茶をここに荷揚げして売買をしたことから町の名となったともされる(鳥府志)。寛永一一年(一六三四)の竈数二六(因幡志)


茶町
ちやまち

[現在地名]敦賀市川崎かわさき

しようノ川の西方をさす川西かわにしの笙ノ川沿いに位置し、いま橋で川中かわなか西浜にしはま町に通じ、北は敦賀湊。笙ノ川の洲崎すざきの浜に沿った東西に人家が並んでいたが、寛永一一年(一六三四)小浜藩主酒井忠勝入部の際、洲崎を検分し、翌年町立した。検地の際ほん(西浜町)より笙ノ川に橋を架け今橋と号したため、今橋橋詰いまばしはしづめ町といったが、寛永一五、六年頃には多くの問屋が建った(敦賀志)

寛文(一六六一―七三)より天和(一六八一―八四)頃までは敦賀茶商の全盛期で、万治―寛文(一六五八―七三)頃茶問屋二九・茶買二〇(指掌録)、天和頃茶問屋二三(遠目鏡)、寛文四年には茶仲間六人を置き、同五年の売茶は三万三千二四九本(一本は一二―一五貫)


茶町
ちやまち

[現在地名]米子市茶町・明治町めいじちよう

しお町の北に続く伯耆街道両側を占める町人町。西側は城の外堀東岸に沿う。慶長五年(一六〇〇)中村氏入部以前の茶町は東倉吉ひがしくらよし町の裏手辺りの加茂かも川沿いにあったといわれるが未詳。総間数は一三二間。外堀に架かる牧野まきの橋に通ずる小路(牧野小路)は長さ二四間(明治二年「町々間数等書上」米子市史)。町裏に耕地が広がり、文化元年(一八〇四)の下札に基づく生高五六石余、物成三三石余(同書)


茶町
ちやまち

[現在地名]静岡市茶町一―二丁目

駿府城の北西、城下縦筋(縦町)第二行の両側町。北は上桶屋かみおけや町、西は上魚かみさかな町、東西の町裏は明屋敷に接する。南から北へ一丁目・二丁目と並び、一丁目の南端は横筋(横町)第九行のくるま町と交差する(以上、町方絵図)。町名は安倍あべ郡山中の茶の商いの中心であることに由来し(駿河記)、安倍郡足久保あしくぼ村の茶を集めたという(駿国雑志)。現在も静岡茶の集散地として知られる。貞享三年(一六八六)の時之鐘鋳直集銭帳(県立中央図書館所蔵文書)によると、家数は一丁目が丁頭家一・本家二三・借屋二六、二丁目は丁頭家一・本家二三・借屋七。元禄五年(一六九二)の町数等覚帳(同文書)では、一丁目は家数二四・人数一五六、二丁目は家数二四・人数九五。


茶町
ちやまち

[現在地名]松江市東茶町ひがしちやまち西茶町にしちやまち

末次本すえつぐほん町の西に位置する町人町。北は片原かたはら町、西は町、南は宍道湖に臨む。町名はかつて茶店が軒を並べていたこととも、茶屋という豪商が居住したことに由来するともいう。「雲陽大数録」に「茶町 同二町目」とみえ、二つの区域に分れていたが、茶町がのちの西茶町、二町目(二丁目)がのちの東茶町であろう。堀尾時代城下図では町屋となっている。藩政期の末次家屋敷台帳(松江市誌)によると二町目の家数三四、茶町の家数五九。文化五年(一八〇八)二月一一日当町から失火した火事は折からの南西風によって漁師りようし町の御船奉行所まで至り、類焼約一千二〇〇戸に達したという(同書)


茶町
ちやまち

[現在地名]姫路市古二階町こにかいまち北条口ほうじようぐち

姫路城南東の外曲輪に位置する町人町。元塩もとしお町の南、古二階町の東にあり、北は平野ひらの町。播磨国衙巡行考証(智恵袋)に「高尾ハ今茶町也」とある。高尾たかおについて天正四年(一五七六)の播磨府中めぐり(同書)には「宿の本村より東南一丁半高尾の宿所、四十斗の農家、国府氏が(知)所、(中略)高尾に夜ほつ多し」と遊女の名を数人あげ、さらに前掲巡行考証に「夜行女多し、国府氏家長高尾氏支配村」とある。


茶町
ちやまち

[現在地名]三島市西本町にしほんちよう栄町さかえちよう西若町にしわかちよう

東海道沿いに六反田ろくたんだの西に続く町。宝暦七年(一七五七)新宿しんしゆく町から中之石橋を境に東西に分離して成立(「三島宿新宿町分町請文」三島市郷土資料館蔵)。寛政一〇年(一七九八)三島宿明細帳(秋山家文書)によると町・茶町は一緒に扱われていて東西の長さ一五八間。


茶町
ちやまち

[現在地名]大和郡山市茶町

天正一六年(一五八八)の郡山惣町分日記(春岳院文書)にみえる内町(箱本)一三町のうち。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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