荷田春満(読み)カダノアズママロ

デジタル大辞泉 「荷田春満」の意味・読み・例文・類語

かだ‐の‐あずままろ〔‐あづままろ〕【荷田春満】

[1669~1736]江戸中期の国学者歌人伏見稲荷神社神官国史古典を究めて復古神道を唱え、万葉記紀研究の基礎をつくった。国学四大人一人。著「春葉集」「万葉集僻案抄」「日本書紀訓釈」など。

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精選版 日本国語大辞典 「荷田春満」の意味・読み・例文・類語

かだ‐の‐あずままろ【荷田春満】

  1. 江戸中期の国学者。本姓羽倉。通称は斎宮(いつき)。東麿などとも書く。京都伏見稲荷神社の神官、信詮(のぶあき)の二男。家学の神道説を学びつつも、契沖の万葉学に傾倒し、記紀や「万葉集」、有職故実を研究し、復古神道を唱える。門弟に荷田在満(ありまろ)賀茂真淵など。著「万葉集僻案(へきあん)抄」、歌集「春葉集」のほか、幕府に国学振興を上請した「創学校啓」がある。寛文九~元文元年(一六六九‐一七三六

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朝日日本歴史人物事典 「荷田春満」の解説

荷田春満

没年:元文1.7.2(1736.8.8)
生年:寛文9.1.3(1669.2.3)
江戸前期の国学者。本姓,羽倉氏。幼名,鶴丸。初名は信盛,のち東丸また春満。通称は斎宮。号は雨亭。京都伏見稲荷神社の神官羽倉信詮の次男。母は貝子(深尾氏)。兄に信友,姉に茂子,弟に高惟(多賀姓,荷田在満の父)らがいた。家学の神道説や和歌の秘説を学んだが,当時京都で流行した古義学や闇斎学の影響も受けたらしい。元禄10(1697)年20歳,妙法院宮尭延法親王の家来となって和歌を進講した。13年,教授講義をもって家名を興すために江戸に下った。初め中世風の秘伝,秘儀の色彩の強かった社家神道系の神道説を講義していたが,宝永4(1707)年ごろから『万葉集』をはじめとする古典の研究,講義に入った。その過程で,下河辺長流や契沖によって先鞭をつけられた文献学的実証主義を身につける。正徳3(1713)年いったん帰京,すぐ出府,このとき越後長岡藩(長岡市)藩主牧野忠寿から5人扶持で招聘された。同4年帰京して老母に孝養を尽くし,母の死後,享保7(1722)年みたび出府。将軍徳川吉宗から幕府書物奉行下田師古への和学相伝の命を受け,幕府書庫の蔵書の鑑定などを命じられ,また故実,書籍,古語についての下問に答えた。8年6月帰京後も幕府からの下問に書簡で答えていたが,13年,養子在満を出府させこの仕事に当たらせた。このとき,国学校の設立を幕府に請願した『創学校啓』を在満に持参させたといわれる。春満の学問は,契沖らの開拓した古学の領域を拡大し復古意識を明確にさせ,晩年の門人賀茂真淵によってさらに発展させられた。『万葉集僻案抄』『万葉集童子問』『伊勢物語童子問』『春葉集』などがあるが,著作としてまとめる前に病に倒れ,多く稿本として残る。江戸では赤穂浪士のひとり大高源吾と交遊があり,春満は高家吉良氏邸に出入りする便宜があったため,邸中の図を大高に与えたという。<参考文献>大貫真浦『荷田東麿翁』

(白石良夫)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「荷田春満」の意味・わかりやすい解説

荷田春満(かだあずままろ)
かだあずままろ
(1669―1736)

江戸中期の国学者。氏は羽倉(はくら)、通称は斎宮(いつき)。京都の伏見稲荷(ふしみいなり)神社の神官である荷田信詮(のぶあき)の二男として生まれる。家督は弟の信名(のぶな)が長兄信友(のぶとも)の養子となって継ぎ、春満は学問に励んだ。荷田家には神道と歌学の伝統があり、彼は荷田家の学問の宣伝と興隆とを目ざしていた。1697年(元禄10)に妙法院宮に出仕したが、2年後には致仕して江戸に出、幕府から古書籍の調査鑑定や注釈などを依頼されるようになり、学者としての名声を得た。1723年(享保8)6月に京都へ戻り、その後元文(げんぶん)元年7月2日、68歳で病死するまで、伏見の地で古典研究に従事した。甥(おい)の在満(ありまろ)を養子とし、江戸での荷田学の宣伝活動にあたらせた。

 春満の学問は、古語の研究によって、古義を明らかにするという立場であった。国学の学校を創設したい熱意を表した『創学校啓文』は、春満晩年のものと推察される。賀茂真淵(かもまぶち)は晩年の春満の弟子である。春満は病弱でもあったが、きわめて禁欲的道徳主義で、生涯恋の歌を詠まなかったという逸話がある。賀茂真淵、本居宣長(もとおりのりなが)とともに「国学の三大人(うし)」と数えたのは平田篤胤(あつたね)である。著書に『万葉集童蒙抄(どうもうしょう)』『伊勢(いせ)物語童子問』など。墓所は京都市伏見区深草墓園にある。

[萱沼紀子]

『大久保正著『江戸時代の国学』(1963・至文堂)』



荷田春満(かだのあずままろ)
かだのあずままろ

荷田春満

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改訂新版 世界大百科事典 「荷田春満」の意味・わかりやすい解説

荷田春満 (かだのあずままろ)
生没年:1669-1736(寛文9-元文1)

江戸中期の国学者。伏見稲荷神社祠官荷田(羽倉)信詮(のぶあき)の子。幼名鶴丸,のち信盛と改め,また東麿,東丸,春満と改める。通称斎宮(いつき),略して斎ともいう。29歳のとき妙法院宮に歌道の師として仕える。のち江戸に学び幕府にも出仕した。神道,古典,有職故実の研究を中心に多方面に業績をあげる。その研究方法にはいまだ中世的弊風が抜け切らない面があるが,《古事記》《万葉集》《日本書紀》研究の基礎を築いた功績は大きい。1702年(元禄15)の赤穂浪士の討入りに際しては,側面から助力したと言われる。晩年,京都東山の地に国学校を創建すべく《創学校啓》を認(したた)め,幕府に上請したが実現しなかった。しかし,その文面には彼の国学者としての精神が横溢し,その業績とともに後世国学の初祖と仰がれた。賀茂真淵は彼の門から出ている。著書に《古事記劄記》《万葉集僻案抄》《日本紀神代巻劄記》《令義解劄記》《古今和歌集劄記》《伊勢物語童子問》,歌集《春葉集》など多数がある。そのおもなものは《荷田全集》全7巻に収められている。
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百科事典マイペディア 「荷田春満」の意味・わかりやすい解説

荷田春満【かだのあずままろ】

江戸中期の国学者。京伏見稲荷大社の神官。本姓は羽倉氏。父祖伝来の神道歌学を基礎とし,学問を形成復古神道を説き,語釈を重んじる実証的方法論を示す。門下に賀茂真淵,養子の荷田在満らがある。主著に《万葉集僻案抄》《日本書紀訓釈》,家集に《春葉集》がある。
→関連項目国学(近世)古道学

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「荷田春満」の意味・わかりやすい解説

荷田春満
かだのあずままろ

[生]寛文9(1669).1.3. 京都
[没]元文1(1736).7.2. 京都
江戸時代中期の国学者,歌人。初名は信盛。東丸から春満に改め,東万侶とも書く。通称は斎宮。京都伏見稲荷の神官信詮 (のぶあき) の第2子。家学としての神道と歌学を修め,元禄 10 (1697) 年妙法院宮の学問所に仕え,同 12年以後は江戸にあって研学し,江戸幕府の御用もつとめたが,享保8 (1723) 年以後は京都に帰り,国学の研究や子弟の教育に専念。古典を本文批評的にまたは注釈的に研究することにより,古道を明らかにしようとした。主著『万葉集僻案抄』『万葉集改訓抄』『伊勢物語童子問』。歌道では定家盲信,古今伝授を排し,和歌は幼くはかなく詠むこととし,人情の誠を重んじたが,中世以来風俗が乱れたのはみだらな恋歌のためだとして,恋の歌は詠まなかった。家集『春葉集』 (98) などがある。門下に賀茂真淵などを輩出した。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「荷田春満」の解説

荷田春満
かだのあずままろ

1669~1736.7.2

江戸前・中期の国学者。羽倉氏。通称は斎(いつき),初名は信盛のち東丸。山城国の伏見稲荷の社家で御殿預職の羽倉信詮(のぶあき)の次男。母は細川忠興の臣深尾氏の女貝子。若くして妙法院宮尭延(ぎょうえん)入道親王に仕え,和歌を進講して信頼をえる。1700年(元禄13)江戸へ下り,後陽成(ごようぜい)天皇直伝の歌学を標榜しつつ古典学を教授して評判となり,その影響は神職層に浸透した。23年(享保8)将軍徳川吉宗から有職(ゆうそく)に関する下問をうけ,評価が著しく高まった。著述は,業なかばで倒れたため未定稿が多いが,「古事記箚記(さっき)」「万葉集僻案(へきあん)抄」「伊勢物語童子問」などの注釈のほか,家集「春葉集」,和学専門の学校設立を幕府に請願した「創学校啓」がある。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「荷田春満」の解説

荷田春満 かだの-あずままろ

1669-1736 江戸時代前期-中期の国学者。
寛文9年1月3日生まれ。尭延(ぎょうえん)入道親王につかえたのち,江戸で幕府所蔵の和書の鑑定などに従事。享保(きょうほう)8年(1723)京都にもどって古典研究にしたがい,古学の領域をひろげて復古意識を明確にした。弟子に賀茂真淵(かもの-まぶち)らがいる。元文元年7月2日死去。68歳。京都出身。本姓は羽倉。初名は信盛。通称は斎宮(いつき)。著作に「日本書紀神代巻抄」「万葉集僻案抄」など。

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旺文社日本史事典 三訂版 「荷田春満」の解説

荷田春満
かだのあずままろ

1669〜1736
江戸中期の国学者・歌人。国学の四大人 (うし) の一人
山城(京都府)伏見稲荷神社の神官。日本古典の儒教的・仏教的解釈を排斥して,古語・古文によって,日本固有の古代精神を明らかにしようとし『万葉集』『古事記』『日本書紀』を研究した。'33年賀茂真淵 (まぶち) が入門。主著に『万葉集童蒙抄』『伊勢物語童子問』『創学校啓 (そうがつこうけい) 』など。

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367日誕生日大事典 「荷田春満」の解説

荷田春満 (かだのあずままろ)

生年月日:1669年1月3日
江戸時代中期の国学者
1736年没

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世界大百科事典(旧版)内の荷田春満の言及

【賀茂真淵】より

…32年実父政信が没したのち,梅谷家を出て学問の道にすすむ。真淵は11歳より,荷田春満(かだのあずままろ)の門人杉浦国頭(くにあきら)について手習いをはじめる。22年に春満は江戸下向の途中,杉浦家に滞在,このとき真淵は春満に会っているはずである。…

【国学】より

…こうした日本古典学は,まだそれだけでは国学であるとはいえない。契沖に深く傾倒した伏見の神官荷田春満(かだのあずままろ)は,その万葉研究を受けつぐ一方,《創学校啓》(1728成立)の中で,〈古語通ぜざれば古義明らかならず,古義明らかならざれば古学復せず〉といっているように,契沖の文献学的方法に加えるに独自の復古主義をもってした。この立場は,晩年の春満に師事し,主として宝暦年間(1751‐64)に活躍した賀茂真淵(かものまぶち)にいたって,国学としての最初の体系化がこころみられることになる。…

※「荷田春満」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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