浄瑠璃作者。生没年未詳。医師の子に生まれたが,義太夫節を好み,2世豊竹此太夫の門に入って,豊竹光太夫を名のる太夫として出発した。1761年(宝暦11)には豊竹座で此太夫と同座,以後もほとんど此太夫と行動を共にしている。65年(明和2)8月,豊竹座が退転し,此太夫は翌年8月豊竹此母座を結成,同年冬北堀江市の側に豊竹此吉座本の新芝居を興した。67年12月にこの座で上演された《染模様妹背門松(そめもよういもせのかどまつ)》が,光太夫が作者菅専助として書いた最初の作品である。これは紀海音(きのかいおん)の《おそめ久松袂の白しぼり》を翻案したものであるが,大当りをとり,芝居の裏に〈お染蔵〉と呼ばれる土蔵が建ったという。その後3年間は菅専助として4作を書く一方,光太夫の名も太夫連名に記されているが,70年からは作者活動に専念,もっぱら此太夫のために続々と作品を書いている。80年(安永9)ころ,いったん引退して京都に居を移したが,このころ衰微の傾向にあった豊竹此吉座が,89年(寛政1)5月,5年ぶりで北堀江市の側に復帰したときに,再び筆をとって《博多織恋(はかたおりこいのおもに)》を書いた。しかし91年6月の《花楓都模様(はなもみじみやこもよう)》を最後に,以後はまったく筆をとっていない。現存の作品数33編,そのうち単独作10編,合作23編で,時代物,世話物の双方にわたっているが,世話物のほうを得意とし,また先行作を巧みに翻案,改作して当時の上演様式にふさわしい作品に作り上げた点に特色がある。世話物の代表作のうち《紙子仕立両面鑑(かみこじたてりようめんかがみ)》(1768),《伊達娘恋緋鹿子(だてむすめこいのひがのこ)》《けいせい恋飛脚(こいびきやく)》(ともに1773),《桂川連理柵(かつらがわれんりのしがらみ)》(1776),《置土産今織上布(おきみやげいまおりじようふ)》(1777)は,いずれも改作物であり,時代物の代表作《摂州合邦辻(せつしゆうがつぽうがつじ)》(1773)も同種の作品である。時代物ではほかに《有職鎌倉山(ゆうしよくかまくらやま)》(1789)などが著名である。
執筆者:土田 衞
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
生没年未詳。江戸後期の浄瑠璃義太夫節(じょうるりぎだゆうぶし)の作者。医者の子で、豊竹座(とよたけざ)の太夫(たゆう)を勤めていたが、1765年(明和2)豊竹座退転以後、北堀江市の側(いちのかわ)に劇場を建て座本となった。翌々年から作者となり、以来20余年間に三十数編書いたが、合作も多く、世話物を得意とした。世話物の代表作に『染模様妹背門松(そめもよういもせのかどまつ)』『伊達娘恋緋鹿子(だてむすめこいのひがのこ)』『けいせい恋飛脚(こいのひきゃく)』『桂川連理柵(かつらがわれんりのしがらみ)』など、時代物に『摂州合邦辻(せっしゅうがっぽうがつじ)』。先行作を翻案改作することに優れた才能を発揮、竹本座の近松半二とともに義太夫節の最後の繁栄時代を飾った。
[山本二郎]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…3段。菅専助作。1768年(明和5)12月大坂北堀江市の側芝居,豊竹此吉座初演。…
…角書〈語伝た袂の白絞言伝た忍の寝油〉。菅専助作。1767年(明和4)12月大坂北堀江市の側芝居初演。…
※「菅専助」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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