菅専助(読み)スガセンスケ

デジタル大辞泉 「菅専助」の意味・読み・例文・類語

すが‐せんすけ【菅専助】

江戸後期の浄瑠璃作者京都の人。人形浄瑠璃の衰退期に、主に豊竹座のために筆をとり、新風を吹きこんだ。作「摂州合邦辻せっしゅうがっぽうがつじ」「桂川連理柵かつらがわれんりのしがらみ」など。生没年未詳。

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精選版 日本国語大辞典 「菅専助」の意味・読み・例文・類語

すが‐せんすけ【菅専助】

  1. 江戸後期の浄瑠璃作者。京都の医師の家に生まれたと伝える。二世豊竹太夫に入門して太夫となり、のち作者となった。明和四年(一七六七)の処女作「染模様妹背門松(そめもよういもせのかどまつ)」で大当たりをとり、「摂州合邦辻(せっしゅうがっぽうがつじ)」「桂川連理柵(かつらがわれんりのしがらみ)」などの名作を残した。生没年未詳。

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改訂新版 世界大百科事典 「菅専助」の意味・わかりやすい解説

菅専助 (すがせんすけ)

浄瑠璃作者。生没年未詳。医師の子に生まれたが,義太夫節を好み,2世豊竹此太夫の門に入って,豊竹光太夫を名のる太夫として出発した。1761年(宝暦11)には豊竹座で此太夫と同座,以後もほとんど此太夫と行動を共にしている。65年(明和2)8月,豊竹座が退転し,此太夫は翌年8月豊竹此母座を結成,同年冬北堀江市の側に豊竹此吉座本の新芝居を興した。67年12月にこの座で上演された《染模様妹背門松(そめもよういもせのかどまつ)》が,光太夫が作者菅専助として書いた最初の作品である。これは紀海音(きのかいおん)の《おそめ久松袂の白しぼり》を翻案したものであるが,大当りをとり,芝居の裏に〈お染蔵〉と呼ばれる土蔵が建ったという。その後3年間は菅専助として4作を書く一方,光太夫の名も太夫連名に記されているが,70年からは作者活動に専念,もっぱら此太夫のために続々と作品を書いている。80年(安永9)ころ,いったん引退して京都に居を移したが,このころ衰微の傾向にあった豊竹此吉座が,89年(寛政1)5月,5年ぶりで北堀江市の側に復帰したときに,再び筆をとって《博多織恋(はかたおりこいのおもに)》を書いた。しかし91年6月の《花楓都模様(はなもみじみやこもよう)》を最後に,以後はまったく筆をとっていない。現存の作品数33編,そのうち単独作10編,合作23編で,時代物,世話物の双方にわたっているが,世話物のほうを得意とし,また先行作を巧みに翻案,改作して当時の上演様式にふさわしい作品に作り上げた点に特色がある。世話物の代表作のうち《紙子仕立両面鑑(かみこじたてりようめんかがみ)》(1768),《伊達娘恋緋鹿子(だてむすめこいのひがのこ)》《けいせい恋飛脚(こいびきやく)》(ともに1773),《桂川連理柵かつらがわれんりのしがらみ)》(1776),《置土産今織上布(おきみやげいまおりじようふ)》(1777)は,いずれも改作物であり,時代物の代表作《摂州合邦辻(せつしゆうがつぽうがつじ)》(1773)も同種の作品である。時代物ではほかに《有職鎌倉山(ゆうしよくかまくらやま)》(1789)などが著名である。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「菅専助」の意味・わかりやすい解説

菅専助
すがせんすけ

生没年未詳。江戸後期の浄瑠璃義太夫節(じょうるりぎだゆうぶし)の作者。医者の子で、豊竹座(とよたけざ)の太夫(たゆう)を勤めていたが、1765年(明和2)豊竹座退転以後、北堀江市の側(いちのかわ)に劇場を建て座本となった。翌々年から作者となり、以来20余年間に三十数編書いたが、合作も多く、世話物を得意とした。世話物の代表作に『染模様妹背門松(そめもよういもせのかどまつ)』『伊達娘恋緋鹿子(だてむすめこいのひがのこ)』『けいせい恋飛脚(こいのひきゃく)』『桂川連理柵(かつらがわれんりのしがらみ)』など、時代物に『摂州合邦辻(せっしゅうがっぽうがつじ)』。先行作を翻案改作することに優れた才能を発揮、竹本座の近松半二とともに義太夫節の最後の繁栄時代を飾った。

[山本二郎]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「菅専助」の意味・わかりやすい解説

菅専助
すがせんすけ

江戸時代後期の浄瑠璃作者。医師の子として生れるが,若くして2世豊竹此太夫門下となり豊竹 (竹本) 光太夫を名のった。明和4 (1767) 年処女作『染模様妹背門松』が大当りをとり,以後はもっぱら作者として活躍。明和,安永期を中心に寛政3 (91) 年頃までの約 25年間に,世話物を中心として時代物,改作合せて 30編を書いた。代表作『摂州合邦辻 (せっしゅうがっぽうがつじ) 』 (73) ,『桂川連理柵 (かつらがわれんりのしがらみ) 』 (76) など。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「菅専助」の解説

菅専助 すが-せんすけ

?-? 江戸時代中期の浄瑠璃(じょうるり)作者。
2代豊竹此太夫(とよたけ-このたゆう)に入門,豊竹光太夫(みつたゆう)を名のり浄瑠璃太夫となる。明和4年(1767)作者となり,豊竹此吉(このきち)座「染模様妹背門松(そめもよういもせのかどまつ)」で大当たりをとり,以後30余の浄瑠璃をかいた。作品に「摂州合邦辻(がっぽうがつじ)」「伊達娘恋緋鹿子(こいのひがのこ)」「桂川連理柵(れんりのしがらみ)」など。
【格言など】灯心が無(の)うなれば,油はあっても家は暗闇(くらやみ)(「桂川連理柵」)

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世界大百科事典(旧版)内の菅専助の言及

【桂川連理柵】より

…2段。菅専助作。通称《桂川》《お半長右衛門》。…

【紙子仕立両面鑑】より

…3段。菅専助作。1768年(明和5)12月大坂北堀江市の側芝居,豊竹此吉座初演。…

【摂州合邦辻】より

…通称《合邦》。菅専助若竹笛躬(ふえみ)作。1773年(安永2)2月大坂北堀江市の側芝居初演。…

【染模様妹背門松】より

…角書〈語伝た袂の白絞言伝た忍の寝油〉。菅専助作。1767年(明和4)12月大坂北堀江市の側芝居初演。…

【伊達娘恋緋鹿子】より

…通称《櫓のお七》。菅専助,松田和吉,若竹笛躬作。1773年(安永2)4月大坂北堀江市の側芝居初演。…

※「菅専助」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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