菅専助
すがせんすけ
生没年未詳。江戸後期の浄瑠璃義太夫節(じょうるりぎだゆうぶし)の作者。医者の子で、豊竹座(とよたけざ)の太夫(たゆう)を勤めていたが、1765年(明和2)豊竹座退転以後、北堀江市の側(いちのかわ)に劇場を建て座本となった。翌々年から作者となり、以来20余年間に三十数編書いたが、合作も多く、世話物を得意とした。世話物の代表作に『染模様妹背門松(そめもよういもせのかどまつ)』『伊達娘恋緋鹿子(だてむすめこいのひがのこ)』『けいせい恋飛脚(こいのひきゃく)』『桂川連理柵(かつらがわれんりのしがらみ)』など、時代物に『摂州合邦辻(せっしゅうがっぽうがつじ)』。先行作を翻案改作することに優れた才能を発揮、竹本座の近松半二とともに義太夫節の最後の繁栄時代を飾った。
[山本二郎]
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菅専助 すが-せんすけ
?-? 江戸時代中期の浄瑠璃(じょうるり)作者。
2代豊竹此太夫(とよたけ-このたゆう)に入門,豊竹光太夫(みつたゆう)を名のり浄瑠璃太夫となる。明和4年(1767)作者となり,豊竹此吉(このきち)座「染模様妹背門松(そめもよういもせのかどまつ)」で大当たりをとり,以後30余の浄瑠璃をかいた。作品に「摂州合邦辻(がっぽうがつじ)」「伊達娘恋緋鹿子(こいのひがのこ)」「桂川連理柵(れんりのしがらみ)」など。
【格言など】灯心が無(の)うなれば,油はあっても家は暗闇(くらやみ)(「桂川連理柵」)
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菅専助
すがせんすけ
江戸時代後期の浄瑠璃作者。医師の子として生れるが,若くして2世豊竹此太夫門下となり豊竹 (竹本) 光太夫を名のった。明和4 (1767) 年処女作『染模様妹背門松』が大当りをとり,以後はもっぱら作者として活躍。明和,安永期を中心に寛政3 (91) 年頃までの約 25年間に,世話物を中心として時代物,改作合せて 30編を書いた。代表作『摂州合邦辻 (せっしゅうがっぽうがつじ) 』 (73) ,『桂川連理柵 (かつらがわれんりのしがらみ) 』 (76) など。
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すが‐せんすけ【菅専助】
江戸後期の浄瑠璃作者。
京都の医師の家に生まれたと伝える。二世豊竹此太夫に入門して太夫となり、のち作者となった。明和四年(
一七六七)の処女作「染模様妹背門松
(そめもよういもせのかどまつ)」で大当たりをとり、「摂州合邦辻
(せっしゅうがっぽうがつじ)」「桂川連理柵
(かつらがわれんりのしがらみ)」などの名作を残した。生没年未詳。
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デジタル大辞泉
「菅専助」の意味・読み・例文・類語
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すがせんすけ【菅専助】
浄瑠璃作者。生没年未詳。医師の子に生まれたが,義太夫節を好み,2世豊竹此太夫の門に入って,豊竹光太夫を名のる太夫として出発した。1761年(宝暦11)には豊竹座で此太夫と同座,以後もほとんど此太夫と行動を共にしている。65年(明和2)8月,豊竹座が退転し,此太夫は翌年8月豊竹此母座を結成,同年冬北堀江市の側に豊竹此吉座本の新芝居を興した。67年12月にこの座で上演された《染模様妹背門松(そめもよういもせのかどまつ)》が,光太夫が作者菅専助として書いた最初の作品である。
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世界大百科事典内の菅専助の言及
【桂川連理柵】より
…2段。菅専助作。通称《桂川》《お半長右衛門》。…
【紙子仕立両面鑑】より
…3段。菅専助作。1768年(明和5)12月大坂北堀江市の側芝居,豊竹此吉座初演。…
【摂州合邦辻】より
…通称《合邦》。菅専助,若竹笛躬(ふえみ)作。1773年(安永2)2月大坂北堀江市の側芝居初演。…
【染模様妹背門松】より
…角書〈語伝た袂の白絞言伝た忍の寝油〉。菅専助作。1767年(明和4)12月大坂北堀江市の側芝居初演。…
【伊達娘恋緋鹿子】より
…通称《櫓のお七》。菅専助,松田和吉,若竹笛躬作。1773年(安永2)4月大坂北堀江市の側芝居初演。…
※「菅専助」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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