平安初期の貴族,学者。父は山守。はじめ津連(つのむらじ)であったが,790年(延暦9)百済国貴須王からの系譜と功績を上表して菅野朝臣を賜った。785年安殿親王(平城天皇)の立太子とともに従五位下皇太子学士,796年造宮亮となり,長く平安造都を担当した。797年正四位下左大弁,また初代の勘解由(かげゆ)長官となったらしい。805年桓武天皇が病のおり秋篠安人とともに参議となり,蝦夷征討と平安造都の停止を主張する藤原緒嗣と天下の徳政を相論したが,受け入れられなかった。807年(大同2)山陰道観察使,808年には東海道事も摂行し,809年従三位東海道観察使。810年(弘仁1)復置された参議となり,811年致仕した。秋篠安人とともに《続日本紀》(797),《官曹事類》(803)を編纂し,勘解由長官として《延暦交替式》(803)を撰修した。また,桓武天皇の命によって格式を編纂したが,天皇の死去によって中止となった。
執筆者:西山 良平
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
平安初期の官人。父は津連山守(つのむらじやまもり)。百済(くだら)からの渡来人王辰爾(おうしんに)の後裔(こうえい)で、初め津連であったが、790年(延暦9)に菅野朝臣(あそん)に改賜姓された。桓武(かんむ)天皇の信任があり、785年安殿(あで)親王(平城(へいぜい)天皇)の立太子とともに皇太子学士となり、長くその任にあった。796年には造宮亮(ぞうぐうのすけ)として平安京の造営に加わり、翌年には『続日本紀(しょくにほんぎ)』撰進(せんしん)の功績により正(しょう)四位下(げ)左大弁となり、この年には初代の勘解由(かげゆ)長官となったらしい。805年(延暦24)に65歳で参議となり、この年12月には32歳の新進公卿(くぎょう)藤原緒嗣(おつぐ)と殿中で天下徳政の相論をし、桓武天皇の政治を評価せんとしたが、天皇の認めるところとはならなかった。平城朝には山陰・東海道両道の観察使となったが、811年(弘仁2)正月に71歳で致仕した。『続日本紀』のほか、その原史料を編んだ『官曹事類』や勘解由長官として『延暦(えんりゃく)交替式』を撰修するなど、当時の良官能吏の代表的人物である。
[佐藤宗諄]
(瀧浪貞子)
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